氏族と豪族 ①
これまで「華族類別録」を第一参考資料としながら、
日本の天皇皇位継承問題において、もし、男系が途切れたら、どうするか?
という問題を考えてきた。
旧宮家の皇室復帰か?
旧宮家からの男系男子の養子取りか?
と、伏見宮流への皇統移行を考えてる保守層が多い中、
本当にそれで良いのか?
それが嫌な私のような保守層は、どうしたら良いのか?
いろいろ考えてきた。
考えた末、たどり着いた答えが、
旧宮家よりふさわしい皇別氏族の男系男子を、
皇位継承候補に立てるのが一番良いのではないか?
という答えに達した。
もちろん女性宮家創設から女性天皇を誕生させ、
そして女系天皇へと移行させるという方法が、
昔のような側室制度がない今、
皇統断絶を回避するためには、一番良い方法だというのはわかっている。
しかし、現在の女系反対に強硬な保守層の姿を見ていると、
今、女系天皇への移行を口にするのは、ハードルが高すぎるような気がする。
それならば、いけるところまで現在の男系男子を続ければいいのではないか、
という思いに至った。
しかし、そうすると今度は、
どこまでの親等の男系男子だったら正当な皇位継承者だと認めるのか、
という問題に突き当たる。
かつて第26代継体天皇は応神天皇の5世孫という立場で、
第25代武烈と10親等も離れたにも拘らず皇位継承できた。
「遠すぎる」との批判があったようで、中々ヤマト入りできなかったが、
結果5世孫までが皇位継承できる皇族の範囲となった。
その後、南北朝の時代には、
第99代後亀山天皇から第100代後小松天皇への継承で12親等という最長記録が更新された。
しかし考えてほしい、もし、例えば38親等も離れた男系を皇位継承するとなった場合、
日本の伝統に沿った皇位継承方法と言えるのだろうかと。
現在の皇統が途切れた場合、
正当な次の皇位継承者は誰になるのか?
男系男子であれば何親等隔てていてもいいと認めてしまって良いのかどうか。
私は男系男子が、そこまで遠くまでさかのぼらなければ、見つからないというのであれば、
もう女系でいいのではないか、と思うのだが、
それでも、伏見宮のような600年も前に別れた男系男子でもいた仕方ないと思うのであれば、
もっと近い親等に、いないかともっと探す努力をするべきではないのかと思うのである。
わざわざ遠い血の男系男子を、何故、優先させようとしているのか。
現在の保守勢力、いわゆる竹田恒泰の皇位継承方法を押す勢力の事ですが、
何かしら別の目的があるのではないのか。
ここではっきり言いますが、
伏見宮流の旧宮家の男子よりも、天皇家に近い血筋の男系男子は沢山います。
ゆえに皇位継承問題で最も大事なことは、
原則を守る、いわゆる男系男子の血の濃さを最優先する、それを最優先に考え、皇位継承順位を付け、
日本国民に示すことで、日本の皇位継承問題を終わらせたい。
そういう結論に達しました。
皇別男系氏族に血の濃さを、唯一の皇位継承条件として、明示すること。
それは、現在、養子候補になりえる男系氏族を、片っ端から開示することです。
いろいろ資料を当たっていたら、
皇別氏族というのが、思ってたより多いのに驚きました。
そして、その中でどう優先順位を付ければよいかで、また迷路に迷い込むことになりました。。
神武天皇以来、歴代天皇の系譜を見ていると、
意外に歴代天皇に兄弟が多いのに気づきます。
そしてその各兄弟から伸びた系統の多くが後「豪族」となっているのです。
いわゆる、祖に皇族を持つ「豪族」です。
そんな豪族は、実績次第で皇位継承資格のある氏族にしても良いのではないか、
と思うのですが、いかがでしょうか。
初代神武天皇から「華族類別録」に沿って「皇別華族」を調べていくと、
1類「阿蘇公」(あそのきみ)から6類「小槻宿禰」(おづきのすくね)までを分析してみて、
優先順位を付けるには、いろいろ問題があることに気づかされます。
そもそも古代ヤマトは神話の世界で、事象がいい加減なのです。
その内容も、あまりハッキリしません。
よくわからない説話も沢山あります。
古代ヤマトにおける天皇は、全てが、あまりにも現実離れしているのです。
例えば『日本書紀』と『古事記』の記述を比べていくと、
まずは、同じ事象なのに年代が違う、
同じ人物であるはずなのに名前が違う、
そして、その名前も、複数ある。
更に100歳越えの天皇が何人もいる、
天皇の嫁親兄弟が、紀記で違っている、
天皇の兄弟の順番がバラバラである、
性別が紀記で違う場合もある。
等々
もう正直、真面目に考えられない。
ゆえに、やり方を変えて取り組ないと、
永遠に皇位継承資格のある氏族を探しだすのは不可能であろうとの結論に達しました。
自分自身を納得させれる方法はどんな方法か?
客観的にではなく、自分が納得できる選抜方法は、
それは実は決まってました。
そう「日本書紀」「古事記」を信じること・・・
実はそれしかないのです。
どんなに信憑性がない記述だとしても、
それしか実は天皇について書かれた物で国家の裏付けがあるものはないのです。
日本では「紀記」以外は全て「偽書」と言われています。
辛うじて「新撰姓氏録」のみが日本国民に支持されているのは、
それは「新撰姓氏録」を否定することは「華族類別録」を否定することに繋がり、
「華族類別録」を否定することは、
各氏族の系図を否定することに繋がるからです。
日本の上級国民は、皆、先祖が華族なんです。
明治国家から真実認定されている「華族類別録」「新撰姓氏録」を偽書には出来ないのです。
それ以外はどんな神社の伝説も、
どんなに古い系図も古史古伝も、
信憑性がないと一蹴されているのです。
ゆえに「日本書紀」「古事記」「新撰姓氏録」を最優先に考える。
そこから皇位継承候補を発掘するのが、
最も国民の支持を受けやすいのです。
神武天皇から垂仁天皇まで再び分析し直すことにします。
華族類別録では7人もの天皇を飛ばして解説してしまいました。
2代「綏靖」(すいぜい)、
3代「安寧」(あんねい)、
4代「懿徳」(いとく)、
5代「孝昭」(こうしょう)、
6代「孝安」(こうあん)、
9代「開化」(かいか)、
10代「祟神」(すじん)、
全て飛ばしてしまっているので、やり直さねばなりません。
例えば、5代「孝昭天皇」(こうしょうてんのう)には
「和邇氏」(わにうじ)という後裔がいました。
「和珥氏」(わにうじ)は、「和珥」(わに)を氏の名とする氏族で、
5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族です。
「和珥氏」(わにうじ)
氏姓・・・「和珥臣」(わにのおみ)
氏祖・・・「天足彦国押人命」(あまたりしひこくにおしひとのみこと)(孝昭天皇の第1皇子)
種別・・・皇別
本貫・・・大和国添上郡和邇
後裔・・・和仁氏(武家)
和珥は和邇・丸邇・丸とも書く。
「和珥氏」(わにうじ)は、奈良盆地東北部一帯に広く勢力を持った「豪族」で、
その本拠地は大和国添上郡和邇(現・奈良県天理市和爾町・櫟本町付近)
と添下郡で、
後漢中平年間(184年-189年)の紀年銘をもつ鉄刀を出土した東大寺山古墳、
を含む櫟本古墳群はこの一族の墓所と推定されている。
年代や規模の観点から、
最初期の東大寺山古墳が「彦国葺命」(ひこくにふくのみこと)の、
赤土山古墳が「大口納命」(おおくたみのみこと)の墓と推定されるが、
「和邇下神社」(わにしたじんじゃ)古墳は規模から見て
「武振熊命」(たけふるくまのみこと)の墓とは考え難いと指摘されている。
「和珥氏」(わにうじ)は大和朝廷の外征に参軍し軍事的な業績を上げたと
『播磨国風土記』(はりまのくにふどき)や『新撰姓氏録』(しんせんじょうじろく)から
推定されている。
記紀記述の内で、史実性の高い天皇に「葛城氏」(かつらぎし)が后妃を出したころ、
和珥氏一族が「孝安天皇」(こうあんてんのう)、「開化天皇」(かいかてんのう)に后妃2人を入れ、
「葛城氏」(かつらぎし)の没落後に多くの天皇に11人の后妃を出し、勢力を広げた。
系図によれば、
「仁徳朝」(にんとくちょう)頃に「米餅搗大臣命」(たがねつきのおおおみのみこと)の四子が、
大きく「和邇」(わに)「大宅」(おおやけ)「布留」(ふる)「春日」(かすが)の地に分かれて、
各地に支族を分岐した。
原始的姓氏は「鰐積」(わにづみ)で、
当初は「和邇部」(わにべ)であり、
「履中朝」(りちゅうちょう)から「允恭朝」(いんぎょうちょう)のカバネ制定にあたって、
「米餅搗大臣命」(たがねつきのおおおみのみこと)の後裔の本宗四系統が、
先に「和珥臣」(わにおみ)になったと見る説がある。
6世紀頃に
「春日氏」(かすがし)
「小野朝臣」(おののあそん)
「粟田朝臣」(あわたのあそん)
「柿本朝臣」(かかきのもとのあそん)
「大宅真人」(おおやけのまひと)
「櫟井朝臣」(いちいのあそん)
など、
別姓を名乗るころから「和珥春日氏」(わにかすがうじ)が「和珥氏」(わにし)の中心となり、
そのころに「和珥春日氏」(わにかすがうじ)から「春日氏」(かすがし)に改姓すると見る説がある。
「春日氏」(かすがし)となって後に「蘇我氏」(そがし)が勢力を伸ばすと、
「春日氏」(かすがし)は急速に政治勢力として衰退し、表面から消え、
他の分岐した
「小野氏」(おのし)
「柿本氏」(かきもとし)
「粟田氏」(あわたし)
「大宅氏」(おおやけし)
などが、各方面で活躍する。
枝氏
「春日氏」(かすがし)
「小野氏」(おのし)-小野妹子、小野篁、小野道風を輩出
「柿本氏」(かきもとし)-柿本人麻呂を輩出
「粟田氏」(あわたし)
「大宅氏」(おおやけし)
「櫟井氏」(いちいし)
「和珥臣」(わにし)の始祖は
「観松彦香殖稲天皇」(みまつひこかえしねのすめらみこと)(孝昭天皇)
の長男の「天足彦国押人命」(あめたらしひこくにおしひとのみこと)
「天足彦国押人命」(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の母は
「孝昭天皇」の皇后の「世襲足媛」(よそたらしひめ)(尾張連の遠祖瀛津世襲の妹)。
「孝昭天皇」の崩御の後、同母弟の「日本足彦國押人尊」(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)
が即位した(孝安天皇)
「崇神天皇」の時代「彦国葺命」(ひこくにぶく)が
「武埴安彦」(たけはにやすひこ)の反乱軍を討伐して有功。
「仲哀天皇」(ちゅうあいてんのう)の崩御後
「武振熊命」(たけふるくま)が将軍として
「忍熊皇子」(おしくまのみこ)の反乱軍を討伐。
「応神天皇」(おうじんてんのう)の皇太子
「菟道稚郎子」(うじのわきいらつこ)の母の
「宮主宅媛」(みやぬしやかひめ)は
「日触使主命」(ひふれのおみのみこと)の娘。
「雄略天皇」(ゆうりゃくてんのう)
「仁賢天皇」(にんけんてんのう)
「継体天皇」(けいたいてんのう)
に皇妃を輩出。
「天足彦国押人命」(あめたらしひこくにおしひとのみこと)「孝昭天皇」第一皇子
『日本書紀』では「天足彦国押人命」(あめたらしひこくにおしひとのみこと)、
『古事記』では「天押帯日子命」(あめおしたらしひこのみこと)
他文献では「天足彦国忍人命」(あめたらしひこくにおしひとのみこと)
とも表記される。
『日本書紀』『古事記』とも、事績に関する記載はない。
第5代「孝昭天皇」(こうしょうてんのう)皇子で、
第6代「孝安天皇」(こうあんてんのう)の同母兄、
第7代「孝霊天皇」(こうれいてんのう)の外祖父である。
「和珥氏」(わにし)<和邇氏/丸邇氏>(わにし)・「春日氏」・「小野氏」
ら諸氏族の祖とされる。
『日本書紀』『古事記』によれば、
第5代「孝昭天皇」と「世襲足媛」(よそたらしひめ)<余曽多本毘売命>
との間に生まれた第一皇子である。
同母弟には「日本足彦国押人天皇」<大倭帯日子国押人命>「第6代孝安天皇」がいる。
子に関して『日本書紀』では娘の押媛が孝安天皇の皇后となり、
「孝霊天皇」(第7代)を産んだとする。
『日本書紀』では「天足彦国押人命」について、和珥臣(和珥氏)の祖とする。
また『古事記』では、
「春日臣」
「大宅臣」
「粟田臣」
「小野臣」
「柿本臣」
「壱比韋臣」
「大坂臣」
「阿那臣」(吉備穴国造)
「多紀臣」
「羽栗臣」
「知多臣」
「牟邪臣」(武社国造)
「都怒山臣」
「伊勢飯高君」(飯高県造)
「壱師君」(壱師県造)
「近淡海国造」
ら諸氏族の祖としている。
そのほか『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
左京皇別 - 「大春日朝臣」「吉田連」「丈部」
右京皇別 - 「栗田朝臣」「山上朝臣」「真野臣」「和邇部」「安那公」「野中」
山城国皇別 - 「小野朝臣」「粟田朝臣」「小野臣」「和邇部」「大宅」「村公」「度守首」
大和国皇別 -「柿下朝臣」「布留宿禰」「久米臣」
摂津国皇別 - 「和邇部」「羽束首」
河内国皇別 - 「大宅臣」「壬生臣」「物部」
和泉国皇別 - 「葦占臣」「物部」「網部物部」「根連」「櫛代造」
右京未定雑姓 - 「中臣臣」
和泉国未定雑姓 - 「猪甘首」
古代ヤマト政権では「和邇氏」(わにうじ)はトップクラスの豪族だ。
そんな豪族の「和邇氏」(わにし)が飛ばされるようでは、
「華族類別録」で古代豪族の考証などできるわけがない。
垂仁天皇といえば、
在位期間がBC29年~AD70年まで99年間、153歳まで生きた。
垂仁天皇を祖とする「豪族」は沢山いて『新撰姓氏録』にも沢山記載されている。
「天孫降臨」説話というものがある。
「天孫降臨」(てんそんこうりん)とは、
「天孫」の「邇邇藝命」(ににぎのみこと)が、
「高皇産霊尊」(たかぎむすび)の意向によって、
もしくは「天照大御神」の神勅を受けて、
「葦原の中つ国」を治めるために、
高天原から筑紫の日向の襲の高千穂峰へ天降だったこと。
「邇邇藝命」(ニニギノミコト)は「天照大御神」(アマテラス)から授かった三種の神器をたずさえ、
「天児屋命」(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、
高天原から地上へと向かう。
途中「猿田毘古神」(さるたひこ)の神が案内をしたと『記紀』に記されている。
「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)が地上に降り立ったとき、
当時「芦原の中つ国」では
「国津神」(くにつかみ)または「地祇」(ちぎ)
と呼ばれる土着の神々が統治をしていた。
▪「素戔嗚尊」(スサノオ)
▪「大国主神」(オオクニヌシ)
▪「建御名方神」(タケミナカタ)
▪「椎根津彦」(しいねつひこ)
▪「綿積豊玉彦命」(ワタツミ)
といった神々のことである。
これらは一般的に皇室とは別系統の神々だと思われているが、
これらの後裔で「豪族」となった豪族も多い。
これらの豪族は「天孫」ではなく「神別」であり、かつ「国津神」で「地祇」である。
にも拘らず後世、系図の上では、祖が親王だったりする。
その系図が「華族類別録」の根拠になって華族になってるので、
その系図は信憑性がある。
「天孫降臨」説話における「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)とは違うルートで、
日本に降下した神に「饒速日命」(にぎはやひのみこと)とそのグループがいる。
「饒速日命」(ニギハヤヒ)は『日本書紀』などの記述によれば、
神武東征に先立ち「天照大神」(アマテラス)から十種の神宝を授かり、
「天磐船」(あまのいわふね)に乗って「河内国」(大阪府交野市)の、
「河上哮ケ峯」(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯地と考えられている)に降臨し、
その後「大和国」(奈良県)に移ったとされている。
これらは「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。
また、有力な氏族、特に祭祀を司どる「物部氏」(もののべし)の祖神とされていること、
「神武天皇」(じんむてんのう)より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、
ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。
「大和地方」に「神武天皇」の前に「出雲系」の王権が存在したことを示すとする説や、
「大和地方」に存在した何らかの勢力と「物部氏」に結びつきがあったとする説などもある。
『先代旧事本紀』では「天火明命」(アメノホアカリ)と「ニギハヤヒ」は同一神とされる。
『新撰姓氏録』においては「ニギハヤヒ」は「天孫・天神・地祇」の分類では「天神」
「天火明命」(アメノホアカリ)は「天孫」となっている。
『新撰姓氏録』では全氏族を「皇別」「神別」「諸蕃」に別けている。
「神別」は「天津神」「国津神」に分けられ、
更に「天孫」「天神」「地祇」に分類されている。
「天孫109」「天神265」「地祇30」を数える。
「天孫」とは「天孫降臨」しヤマト王権をつくったとする古代勢力の総称である。
「天神」とは「神別」の中の「天神 ・天孫 ・地祇」に分類された「天神」のことである。
「地祇」とは「神別」の「天津神」「国津神」の「国津神」のことである。
「大国主」など「天孫降臨」以前からこの国土を治めていた土着の神のことを「国津神」
対して「天照大神」などがいる高天原の神を「天津神」という。
「天孫」は『新撰姓氏録』では「天照大神」などの子孫、
「天穂日命」
「天道根命」
「天津彦根命」
「天火明命」
「火闌降命」
「天佐鬼利命」の子孫をと定義している。
「皇室」
「出雲氏」
「尾張氏」
「土師氏」
「隼人」
などは、その子孫にあたるとしている。
しかし、同じ苗字の一族でも、
「賀茂氏」「石部氏」などは「天神」と「地祇」の系統が別々に存在する。
「天神/天孫」どちらにもつながる系図を持っていたりする氏族(尾張氏/ニギハヤヒ)もある。
結局、曖昧なのである。
現在内宮の神主である荒木田氏は「天神」の一族で「天孫」ではない。
内宮の鏡を持っていたと思われる大宮姫(卜部氏の娘)も「天神」です。
「出雲氏」(天穂日の後裔)
「凡河内氏」(おおしこうしうじ)(天津彦根の後裔)は「天孫」である。
他には
「天火明」(ただしニギハヤヒ系は天神なので違う)
「椎熱彦」(国津神の系図もある)
「隼人」(天孫であったり地神であったり)
「天照大神」(あまてらすおおみかみ)の子孫の神々は「天孫」に分別される。
▪「天穂日命」(アメノホヒ)
▪「天津彦根命」(アマツヒコネ)
▪「天火明命」(あめのほあかりのみこと)
▪「火闌降命」(ホスソリ)(古事記と日本書紀で違う)
▪「天佐鬼利命」(あまのさぎりのかみ)
古代「豪族」の多くの系図は、特定の歴代天皇の兄弟を、祖に持っている場合が多い。
例えば
「阿倍臣」(あべのおみ)の祖が「孝元天皇」の皇子「大彦命」
「蘇我氏」(そがし)の祖が「孝元天皇」の孫(または3世孫)の「武内宿禰」
「物部氏」(もののべし)の祖が「饒速日命」(にぎはやひのみこと)
「饒速日命」(ニギハヤヒ)は『日本書紀』などの記述によれば「神武東征」に先立ち、
「天照大神」から十種の神宝を授かり
「天磐船」(あまのいわふね)に乗って、
河内国(大阪府交野市)の「河上哮ケ峯」(いかるがみね)現在の磐船神社周辺の一帯地に降臨し、
その後大和国(奈良県)に移ったとされている。
これらは「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。
『古事記』『日本書紀』の一書によれば、
「饒速日命」(ニギハヤヒ)の父は「天忍穂耳尊」(あめのおしほみみのみこと)
「饒速日命」(ニギハヤヒ)は「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)の実兄である。
この事は、天皇の男系を意味する。
つまり「饒速日命」(ニギハヤヒ)の男系子孫は、皇位継承の資格があるというわけである。
『日本書紀』では天皇の子女を11代垂仁天皇まで「~命」と表記し、
12代の景行天皇以後は「~皇子」「~皇女」と表記している。
何故、垂仁天皇から
『日本書紀』の子女の表現が変わったのか?
古代日本におけるヤマト王権の時代には、
有力豪族の子弟をさして広く「みこ」(御子)と呼んでいた。
しかし「蘇我蝦夷」(そがのえみし)が自身の子を
「みこ」と尊称させていた事が「不敬」だと
「乙巳の変」の遠因なったという説もある。
この「不敬」という認識はいつ頃できたのだろうか。
「蘇我氏」の祖は「武内宿禰」であり「孝元天皇」の男系男子である。
ましてや超有力豪族である。
しかもヤマト政権では「豪族」と「皇別氏族」の境界線は曖昧だった。
「みこ」と呼んだのが不敬だから暗殺されたとは眉唾なのだ。
『日本書紀』では26代「継体天皇」以前に別れ出た氏族には、
おもに「姓」(かばね)として「臣」(おみ)を授けているとの説があります。
携帯天皇の在位期間は507年~531年。
継体期は多くの変化があり、ここではまだ考察しないが、じっくりやれば相当なボリュームになると思われる。
『日本書紀』では8代「孝元天皇」の皇子「大彦命」(おおひこのみこと)後裔に、
有力七氏族と呼ばれる「豪族」が生まれている。
①「阿倍臣」(あべのおみ)を始め
②「膳臣」(かしわでのおみ)<後の髙橋臣>
③「阿閉臣」(あへのおみ)<阿敢臣>
④「狭狭城山君」(ささきやまのきみ)
⑤「筑紫国造」(つくしのくにのみやつこ)
⑥「越国造」(こしのくにのみやつこ)
⑦「伊賀臣」(いがのおみ)ら7氏の始祖とする。
ただし『古事記』では、
「建沼河別命」(武渟川別)を「阿倍臣」等の祖、
「比古伊那許志別命」を「膳臣」の祖に位置づけている。
ここで使われている「臣」(おみ)は「姓」(かばね)で
姓の中では「連」(むらじ)と並んで高位に位置する。
「臣」(おみ)の姓を称した氏族には
「蘇我氏」(そがし)
「巨勢氏」(巨瀬・許勢)(こせうじ)
「紀氏」(きうじ)
「平群氏」(へぐりうじ)
「葛城氏」(かつらぎうじ)
「波多氏」(はたうじ)
「阿部氏」(あべうじ)
「穂積氏」(ほづみうじ)
等がいた。
これらの豪族は主に奈良盆地周辺の地名を氏の名としていることから、
「臣」(おみ)の姓は、
もとは皇室に従属し、
連合政権(ヤマト王権)を形成した畿内周辺の豪族に与えられたものと考えられている。
「臣」(おみ)の姓を名乗る氏族の中で最も有力な者を「大臣」(おおおみ)と呼び、
国政を預けられた。
一方「連」(むらじ)の姓を名乗る氏族は、
「神別」に授けられ、最も有力なものを「大連」(おおむらじ)と呼んだ。
「天武天皇」が「八色の姓」を制定したことで、
それまで臣だった中央の貴族は「朝臣」(あそん)を授けられ、
「臣」(おみ)の姓は存続したが、
上から6番目に格下げとなり、
主として地方豪族が保持する姓となった。
我々が「氏族」の素性を知りたいとき、
最初に調べるのが『新撰姓氏録』である。
これでは「天皇家」から別れた「皇別氏族」は335氏、
それ以外の有力氏族は「神別」「諸蕃」に分けられ、
総数1182の氏が地域別に記載されている。
それに対して華族は総数504家、
そのほとんどが1884年(明治17年)に叙爵されている。
「新撰姓氏録」が815年(平安初期)の編纂なので約1070年の開きがある。
多くの氏族は枝別れし、断絶したりしてるが、
明治まで残った氏族は明治政府によって華族とされた。
そのほとんど「新撰姓氏録」に載っており、
祖が天皇の親王である系図がある。




