6類「壬生家」④垂仁天皇
華族類別録6類 皇別 「小槻宿禰」(おづきのすくね)
垂仁天皇皇子 於知別命 後今雄裔
(すいにんてんのうみこ おちわけのみこと のちいまおえい)
従三位 壬生輔世 官務
さて、この6類、4回目の考察だが、考察するにつれ、次々と疑問が湧いてくる。
この華族類別録6類において、
垂仁天皇の皇子「於知別命」(おちわけのみこと)の系譜の後裔である壬生家は、
この壬生輔世が当主の「壬生家」のみであるが、
華族類別録の中には、もう一つ壬生家がある。
華族類別録58類神別壬生家である。
神別 藤原朝臣
内大臣鎌足十三代右大臣頼宗裔
従三位壬生基修羽林家 である。
皇別における壬生家は「於知別命」の後裔の華族「壬生輔世」男爵家である。
もう一つの壬生家は、
「藤原北家中御門流持明院家支流」にあたる公家・華族の家系で、家格は摂家,清華家,大臣家につぐ「羽林家」(うりんけ)であり、官務家ではあるが、地下家の壬生輔世とは違う。
「壬生基修」は子爵、後に伯爵となったのである。
基修は、幕末・明治維新期の公卿で七卿落ちの一人で、維新後は、参与。
戊辰戦争では参謀となり従軍し会津藩を攻略した。
越後府知事、東京府知事を経て、元老院議官、貴族院議員となる。
明治17年7月8日子爵の位を授けられ、明治24年伯爵に陞爵した。
「壬生輔世」(みぶ すけよ)、「壬生基修」(みぶ もとおさ)、
どちらも明治の華族だが、
一方は「皇別」、もう一方は「神別」
家格は一方は「羽林家」だが、もう一方は「地下家」、
しかし天皇の男系の血を伝えてるのは皇別で地下家の「壬生輔世」の方である。
「壬生基修」は「藤原朝臣内大臣鎌足十三代右大臣頼宗裔」と記してあるように、
先祖は「藤原家」なのである。
藤原北家中御門流「壬生家」と呼ばれ、
天皇とは男系で繋がってはいない、いわゆる臣の家柄なのである。
ゆえに皇位継承問題では、日本の右翼連中からは押されることはないのだが、
面白いことに、この「壬生家」には、近年「東久邇家」から男系男子の養子が入った、すなわち天皇の男系の血が入ったのである。
wikipediaによると、
>基博は、昭和天皇の第1皇女成子内親王と東久邇宮稔彦王の長男盛厚の二男。初名は秀彦。
壬生家の養子となり、第一ホテル専務などを務めた。
また二人の息子(壬生基成・壬生基敦)がいる。
東久邇家と言えば旧宮家である伏見宮流。
伏見宮の男子が藤原(藤原北家中御門流)の家に養子で入ったということは、
いわゆる「皇別摂家」と同じパターンであり、
東山天皇、後陽成天皇の皇子たちのパターンと同じである。
こちらの「壬生家」も天皇を継承できるということになる。
さて、華族類別録における考察であるが、
11代垂仁天皇の宗族は6類だけである。
垂仁天皇の皇子「於知別命」(おちのわけのみこと)が祖になるのだが、
『古事記』では「落別王」(おちわけ)、
『日本書紀』『先代旧事本紀』では「祖別命」(おおじわけ/おおぢわけ)、
「意知別命」(おちわけのみこと)、
『新撰姓氏録』では「於知別命」(おちわけ) と表記される。
『新撰姓氏録』では、垂仁天皇の皇子の系譜が他にもあり、
①「鐸石別命」(ぬてしわけのみこと)、渟葉田瓊入媛の子
②「於知別命」(おちのわけのみこと)、苅幡戸辺の子
③「息速別命」(いこはやわけのみこと)、薊瓊入媛の子
④「磐衝別命」(いわつくわけのみこと)、綺戸辺の子
⑤「五十日足彦命」(いかたらしひこのみこと)、苅幡戸辺の子
と垂仁天皇の皇子が5人も登場し、
②「於知別命」(おちわけのみこと)
⑤「五十日足彦命」(いたらしひこのみこと)の母が、
同一人物「刈幡戸辺」(かりはたとべ)であり、
①「鐸石別命」(ぬてしわけのみこと)→母:「渟葉田瓊入媛」(ぬばたにいりひめ)
③「息速別命」(いこはやわけのみこと)→母:「薊瓊入媛」(あざみにいりひめ)
④「磐衝別命」(いわつくわけのみこと)→母:「綺戸辺」(かにはたとべ)
である。
それでは、各系譜を見ていこう『新撰姓氏録』からの資料である。
①「稲城壬生公」(いなきのみぶのきみ)
垂仁天皇皇子「鐸石別命」(ぬてしわけのみこと)より出る 左京皇別下
②「和気朝臣」(わけのあそみ)
垂仁天皇皇子「鐸石別命」(ぬてしわけのみこと)の後 右京皇別下
③「山辺公和気朝臣」(やまべのきみわけのあそみ)
同祖 右京皇別下
④「山辺君和気朝臣」(やまべのきみわけのあそみ)
同祖「大鐸石和居命」(おおぬてしわけのみこと)の後 摂津国皇別
→「鐸石別命」(ぬてしわけのみこと)を祖神としている。
⑤小槻臣 垂仁天皇皇子 於知別命の後 左京皇別下
→「於知別命」(おちわけのみこと)を祖神としてる。
⑥阿保朝臣 垂仁天皇皇子 息速別命の後 右京皇別下
→「息速別命」(いこはやわけのみこと)を祖神としてる。
⑦羽咋公 垂仁天皇皇子 磐衝別命の後 右京皇別下
→「磐衝別命」(いわつくわけのみこと)を祖神としている。
⑧山守 垂仁天皇皇子 五十日足彦命の後 摂津国皇別
⑨山公 垂仁天皇皇子 五十日足彦命の後 和泉国皇別
→五十日足彦命を祖神としている。
以上、合計9氏族である。
こんなに後裔が残っているのにもかかわらず、明治政府の華族類別録に登録されたのは、
⑤「小槻氏」後裔「壬生家」のみである。
なぜ他の後裔氏族は華族認定から外れてしまったのかわからない。
取り敢えず一つ一つ考察していこう。
取り敢えず⑥「息速別命」(いこはやわけのみこと/おきはやわけのみこと)から考察してみることにしよう
「息速別命」(いこはやわけのみこと)表記は、
・伊許婆夜和気命『古事記』
・池速別命『日本書紀』『先代旧事本紀』「天皇本紀」
・息速別命(いこはやわけのみこと/おきはやわけのみこと)『日本三代実録』『新撰姓氏録』
・息速別皇子『続日本紀』
また『続日本後紀』の「伊枳速日命」(いきはやひのみこと)を同一人物と見る考えもある。
第11代垂仁天皇と、
丹波道主王の娘の、
薊瓊入媛もしくは
阿邪美能伊理毘売命の、
間に生まれた皇子が「息速別命」(いこはやわけのみこと)である。
同母妹として「稚浅津姫命」(わかあさつひめのみこと)もしくは
阿邪美都比売命がいる。
『先代旧事本紀』「天皇本紀」では母は同じとするが、同母弟に、
「五十速石別命」(いはやしわけのみこと)(記紀なし)、
「五十日足彦命」(いかたらしひこのみこと)(記紀では異母兄弟)、があると異伝を記す。
妻子は不明であるが、
近世の系図には子に、
「宇礼葉別命」(うれはわけのみこと)を挙げる系図と、
「伊賀国造」(いがのくにづくり)祖の「武伊賀都別命」(たけいがつわけのみこと)を挙げる系図がある。
『続日本紀』では、四世孫として「須禰都斗王」(すじつけのきみ)を挙げる。
『古事記』『日本書紀』には事績に関する記載はない。
『新撰姓氏録』によれば、
「息速別命」(いこはやわけのみこと)が幼少の時、
父・垂仁天皇が伊賀国阿保村現・三重県伊賀市阿保周辺に、
息速別命へ宮室が築き、同村が授けられたという。
『三国地志』は、
その地を阿保南部の字福森から字西ノ森にかけての緩らかな丘陵地帯に比定している。
「息速別命」(いこはやわけのみこと)について
①『古事記』では「沙本穴太部之別」(さほのあなほべのわけ)、
②『新撰姓氏録』では「阿保朝臣」(あほ/あおのあそん)の祖とする。
①「沙本穴太部」(さほのあなほべ)とは、
大和国添上郡沙本(現・奈良県奈良市中央北方の佐保川上流域)
を拠点としたと見られる豪族。
②「阿保氏」(あほ/あおうじ)とは、
伊賀国伊賀郡阿保村(現・三重県伊賀市阿保周辺)を治めたとされる豪族とも、
伊賀国造の一族とも推定されている。
『新撰姓氏録』によれば、
「息速別命」(いこはやわけのみこと)は阿保に宮室を作って封邑とし、
子孫は第19代允恭天皇のときに「阿保君」(あほ/あおのきみ)の姓を賜った。
また、天平宝字8年(764年)に「阿保朝臣」(あほ/あおのあそん)姓を賜って改姓したという。
『続日本紀』によれば、
「阿保君」姓は息速別命四世孫の「須禰都斗王」(すじつけのきみ)が賜ったとする。
その後、第21代雄略天皇の代に
「阿保君意保賀斯」(あほ/あおのきみのおおかし)が
「健部君(建部氏)」の姓を賜り、
のち延暦3年(784年)に、
建部朝臣人上らに「阿保朝臣」(あおのあそん)、
健部君黒麻呂等に「阿保公」(あおのきみ)姓が下賜されたという。
『続日本後紀』には
「伊枳速日命」(いきはやひのみこと)の苗裔として
「時統氏」(じとうし)が見え、
「伊枳速日命」(いきはやひのみこと)を息速別命と同一人物と見て、
この「時統氏」(じとうし)も後裔氏族とする説もある。
また、下野国(栃木県)の「若田氏」にも後裔とする伝承がある。
そのほか「小槻氏」(官務家)にも命の後裔とする記載が見られる。
『日本三代実録』によると、
「息速別命」(いこはやわけのみこと)後裔という
「小槻山今雄・有緒」(おづきのやまのいまお・ありお)らに
「阿保朝臣」(あほ/あおのあそみ)の氏姓が下賜されている。
この「阿保氏」はのち「小槻氏」と改姓し、
小槻氏嫡流の壬生家が明治に提出した系譜『壬生家譜』でも、
「息速別命」(いこはやわけのみこと)の子孫としているが、本来、この氏は祖別命
の後裔であるため、
息速別命の後裔を称したのは、
朝臣姓を得るための仮冒とする説がある。
一方「小槻山君」(おつきのやまのきみ)、「伊賀国造」(いがのくにづくり)と、
「阿保君」(あおのきみ)との同族性から、
「息速別命」(いこはやわけのみこと)と
「祖別命」(おちわけのみこと)を同一人物と見る説もある。
栃木県日光山開基の勝道上人の伝記『補陀洛山草創建立記』(ふだらくさんそうそうこんりゅうき)
では「垂仁天皇」の第九皇子として「息速別命」(いこはやわけのみこと)の伝承を載せる。
同記によると、命は勅命を受けて鈴鹿川の上流で伊勢神宮を奉斎したのち、
縁があって東国に下向したが、罹病により一眼を損失した。
そのために帰洛出来ず、
下毛野国(下野国)の「室八島」(むろのやしま)に止住して同地の「若田氏」の祖となったという
(勝道上人は若田氏の出といわれる)。
栃木県真岡市にある鹿島神社にも同様の社伝があるという。
谷川健一はこの伝承について、
古代日本においては鍛冶神が多く隻眼とされていること、
異母兄弟である「誉津別命」(ほむつわけのみこと)や、
「五十瓊敷入彦命」(いにしきいりひこのみこと)も鍛冶に深く関係すると見られること、
父天皇(垂仁天皇)自身にも鍛冶に関する伝承が見られること、
日光山の祭祀には鍛冶と深く関わると思われる小野氏の関与が示唆されること等から、
息速別命と鍛冶職との関連を指摘している。




