その6
その後一週間、未那は進の部屋を訪れることはなかったが、フィットネスクラブのほうには毎日顔を出しており、人懐っこい性格と、年齢的に一番下の女の子ということもあり、あっという間に皆の間で妹ぶん的な存在になっていた。
特に皆が注目していたのは未那の得意技、華織の真似で、あごに手指を添え、考え込むようにした後、ものを言う一連の流れを、華織本人がしている斜め後ろで同様に真似ているのだ。
見ている側は華織を目の前にして噴出すわけにはいかず、うつむき加減で笑いをこらえているのだが、さすがに華織が気付かぬわけはない。
「…未那ちゃん。何をしているのかしら?」
「きゃーっ!」
逃げ出す未那を華織が追う。
「お待ちなさい、未那ちゃん!」
「あーん…」
逃げはするものの、スピードを途中から緩める未那は、すぐに華織につかまってしまう。
「ごめんなさぁい。華織さまぁ、怒っちゃいやです」未那は華織の腕にしがみつく。
「…ん、もう。しょうがない子ね」
口を尖らせながらも、悪い気はしないという様子の華織。
「あ。そうだ! 華織さま、私、お詫びにランチをご一緒しますね!」
「未那ちゃん、あのね…」
「イヤなんですか?」怒ったように尋ねる未那。
「本当にしょうがない子なんだから」華織が歩き出す。「…早くいらっしゃい」
「はーい」
華織の後ろからしがみつき、うれしそうにステップを踏む未那を、一同は笑顔で見送る。そんな流れが日常になりつつあった。
「進さん、彼女、ただもんじゃないですよね」未那と同い年の大垣哲也が進に言う。「あの華織さまが振り回されてますよ」
「まったくなあ。わけがわからんよ」
「でも、嫌いじゃないでしょ、ああいう子。けっこう気になってますよね」ニヤリと笑う哲也。
「くだらんこと言ってないで、今日のメニューちゃんとこなせ」
「はーい」
不機嫌そうに哲也に答えた進だったが、内心ドキリとしていた。
“振り回されているのは俺も同じか…”
「進ちゃん! あなたも早くいらっしゃい!」
階段の上から呼ぶ華織の声に振り返った進は、小さくため息をつきながら二人の下へと走った。
* * *
華織、未那、進の3人のランチは、結局、ジムから徒歩10分のところにある進の部屋で、進が作ったパスタとサラダを食べて終わった。
「あー、おーいしかったー! ごちそうさまでした」両手を合わせる未那。
「でしょう? こう見えて、進ちゃんは名シェフなのよ」
「料理の手際もすごくよくてビックリでした」
「あら、未那ちゃん。胸のところ、トマトソースがハネちゃってるわよ」
「え?…あーっ…」
慌ててハンカチを取り出す未那に、進は、ちょっとそのまま待っててと声をかける。
「このナプキン、シミの裏側に当てて」
「はい」白いシャツの胸ボタンを一つ開けて、紙ナプキンを入れる未那。
「じゃあ、この布でシミだけポンポン叩いて、紙ナプキンのほうにシミを移して」
「…これってサラダ油ですか?」未那がクンクン布を嗅ぐ。
「油のシミは油で取るんだよ」
「なるほど…」
楽しそうにポンポンとシャツを叩く未那に、華織が思わずくすりと笑う。
「未那ちゃんは何をしていても楽しそうねえ」
「だって、ほら、こんなに取れていきますよ。進ちゃん、ありがとうございます」
「早めに洗濯しなね。…一応クリーニング出したほうがいいかな」
「え」困った顔になる未那。
「どうしたの、未那ちゃん?」
「クリーニング、時間かかりますよね。私、シャツと言うか、ブラウスと言うか…これともう一枚しかなくて…」
「2枚しかないということ?」華織が目を見開く。
「はい」
「ちなみに、他のお洋服はどれぐらいあるのかしら」
「セーター1枚、ジーパン2本、ジャケットが1着です」
「それだけ?」今度は進が目を見開く。
「あと、胴衣が3着、トレーニングウエアは5セットあります。それ用のTシャツは10枚くらい」
自慢げに言う未那に、どこから突っ込んでいいのか戸惑う進。
「あのさ…君ぐらいの女の子って、もう少し、普通の洋服が好きなんじゃないの?」
「麻那ちゃんはとってもおしゃれです」ニコニコ顔の未那。
「わかりました」
華織はおもむろに立ち上がると、3人分の空いた食器をてきぱきと片付け、洗い始めた。
「私、やりますから」
未那が手伝おうとするが、手を出す隙がない。
「進ちゃん、自然乾燥でいいかしら。布巾かけておきますから」
「は、はい」
「じゃあ、これでおしまい。行きますよ、二人とも」
「どこへですか?」
「あなたの服を買いにです、未那ちゃん」眉間にしわを寄せる華織。「進ちゃんも来て。一緒に見立ててちょうだい」
「はい…」
進は、今日の午後の予定は全部キャンセルになりそうだなと思いながら、ジャケットを羽織った。
* * *
店に着くと、華織はさっそく店長を呼んだ。
「この子に上から下まで10通りほど欲しいんですけど、似合いそうなもの、見せてくださる?」
「承知しました、西園寺さま。今すぐご用意いたします」
店長は3人の店員を呼び集めると、未那に微笑みかけながら、しっかり上から下までチェックし、店員たちに指示を出し、5分後には未那の前に、靴やバッグ、アクセサリも含め、12通りのワードローブが並んだ。
「うわぁ…すごーい」
未那は、どさくさにまぎれて進の腕にしがみつきながら、洋服を眺め回す。
「じゃあ、順番に試着してね」
「これ全部着るんですか?」目を丸くする未那。
「嫌なの?」
「き…着ます」未那は慌てて試着室に飛び込んだ。
最初は居心地悪そうに着替えた姿を披露していた未那だったが、進に褒められるとうれしそうに次の服を着に行く。
進は進で、店内を見回って別のワードローブを用意し、未那に着せ、試着タイムは1時間にも及んでしまった。
そして結局、華織は店の提案したワードローブから5通り、進の提案した5通り全てを買い求め、未那の家へ帰った。
「よかったわねえ、未那ちゃん。進ちゃんにお洋服買ってもらえて」
「え…?」ハンガーをクロゼットに掛けていた進が振り向く。
「冗談よ。うふふ。これは私からの入学祝い」
「そんな。私、ちゃんとバイトしてお返ししますから」未那が慌てる。
「あのね、昔からこんなふうに買い物してみたかったの」
満足げに紅茶を飲む華織。
「うちはほら、進ちゃんも天馬も風馬も、息子ばっかりでしょう。保ちゃんのところも男の子二人だし。やっぱり可愛い女の子がいいわ。ショッピングしたり、お食事したり、楽しいものね」
「華織さま…」照れたように未那が笑う。「あの、私、いつでもどこでもお供しますから」
「まあ、うれしい。またお出かけしましょうね。運転手兼荷物持ちもいるし」
そこで二人の視線を感じた進だったが、顔を上げずに黙々と洋服を片付け続けた。
* * *
結局、未那とはその後も、フィットネスで会うだけ、たまに華織や躍太郎も一緒に食事をする機会があるという日々が続いていたが、だからと言って、未那は先日の“申し出”について何も触れるわけでもなかった。
だが、その件について無視するような未那の態度も含め、考えれば考えるほど頭の中がまとまらなくなる進だった。
“確かに彼女は西川重治の孫で、いろんなコネにつながる。華織さまや躍太郎さまの役に立つ情報も得られる。
…綺麗で可愛いし…頭も良くて、料理も上手い。ちょっと気が強いところも、正直タイプだ。一般人と結婚する時の面倒もない。こんな好条件は今後来るとは思えない。
じゃあ、何で俺は迷ってるんだ?”
「迷いはね、幸せに足を踏み入れた時に起きるものなんだよ」
「躍太郎さま…」
後ろから現れた躍太郎に向かい直り、礼をする進。
「進も、ずいぶん普通の人間になったもんだなあ。幸せを選ぶ迷いを経験できるようになったんだ。嬉しいよ」
微笑む躍太郎を前に、進の頬からは涙が零れ落ちた。
「私に…そのような…」
「未那ちゃんは十年前、おまえのすべてを見立てた上で、心の綺麗な人だと言ったのだよ。華織も、それを嬉しく思ったからこそ、そのブレスレットを彼女に渡したんだ」
「ですが私は…」
「おまえも26だろう? 一回ぐらい結婚してみたらいいじゃないか。華織はおまえを命宮にしたがっている。西川家からもらえるものをすべてもらって命宮になればいい」
「躍太郎さまは…未那ちゃんの人生を何だと思っていらっしゃるんですか!」拳を握る進。
「今の意見は不服かい? そんなに彼女が心配かい?」
「…申し訳ございません」
「だが、今の私の言葉が未那ちゃんの意見なんだよ、進。おまえに自分が持っているものを全て与えたいという、彼女の考えそのものなんだ。それが彼女の愛情だ」
「私は…彼女にそこまで思ってもらえるほどの人間だと、自分では思えません」
「躍太郎さん、進ちゃんをそんなに追い詰めないで」
「華織さま!」
「…すまない。ちょっと気負いすぎたね」
「進ちゃんは、望ちゃんがああいうことになってしまって、自分だけ幸せになることに罪悪感を持っているんだわ。だから、こんな降ってわいたようなラッキー、実感がわかないのではないかしら」
「まあ、進の気持ちはわからないでもないよ。私だって、華織から二人で会いたいと言われた時は、狐の仕業かと思ったし、何度会っても、なかなか実感がわかなかった」
「でも実感したら、けっこう楽しい日々でしたでしょう?」
「けっこうどころじゃないさ。私が神に仕える日々を一生送り続けられるであろうのは、華織との幸せを神がくれたからだよ」
微笑みあう二人を前に、進の顔にも笑みがこぼれる。
「だが、進はそこのところをわかってない。人々を少しでも幸せにするために“命”として働いていた華織の元にいるのに、自分自身の幸せを拒んでいてどうするんだ。未那ちゃんが嫌いならともかく、惹かれてるんだろう?」
躍太郎が不満げに進を見つめる。
「それは…確かに…彼女に惹かれているのは事実です。いちいち、心に引っかかるんです。彼女の言動が。
でも、彼女はまだ若くて、何かこう、妙な思い込みがあるのではないかと。華織さまの元にいる人間、それだけで私に対する思い込みが膨らんでしまったのではないかと…」うつむく進。
「それこそ、おまえは未那ちゃんをバカにしてるだろ。彼女をそんなに愚かな人間だと思うのか?」
「いえ…」
「まあ、いいわ、進ちゃん。でも、そのブレスレットは預かっておくわね。進ちゃんは進ちゃんで考えてちょうだい。私と躍太郎さんも、あなたの幸せを真剣に考えるから」
華織は進の腕からブレスレットをはずすと、窓の夕日にかざし、目を閉じて握り締めた。
* * *
「どうしたんですか、進さん。ぼーっとして。ラーメン、のびちゃいますよ」
イマジカの食堂で昼食を取っていた進に、バイトに来ていた哲也が話しかけた。
「あ…いや。うん」ラーメンをすすり始める進。
「恋の悩みですかあ」
ちゃかす哲也をじっと見つめ返す進。
「す、すみません…」
「なあ、哲也。右に行くか左に行くかで迷った時、おまえはどうやって決める?」
「コインですかね」カレーを頬張る哲也。
「コインか…。サンキュー。あ、これも食べていいぞ」
「え?」
進は席を後にし、ポケットにあった百円玉を握り締めた。
* * *
翌々日、未那が進の部屋を訪ねてきた。先日、進が選んだノースリーブのワンピースにボレロ風のカーディガンを着て、両手には大きな花束を抱え、先日華織が預かると言ったブレスレットもしている。
「未那ちゃん…」
「この花、華織さまからお預かりしました」
「華織さまから?」進が怪訝そうな顔になる。「あ…まあ、入って。ちょうど話がしたいと思っていたし」
「はい…」
未那は上がると、ボストンバッグから花バサミと花瓶を取り出し、花束をきれいに整え始めた。
「そのバッグ、まるでドラえもんのポケットだね。蕎麦包丁から花瓶まで」進が笑う。
「一番欲しいものも出てこないかなあ」未那は振り返らずに答えた。
「出てくるといいね」進がバッグに近づき何かを入れた。「とりあえず、プレゼント入れておくよ」
「え?」未那は花を急いで花瓶に活けると、バッグの中を覗き込み、見覚えのない封筒を開けた。「これ…」
「近いうちに、華織さまたちと、重治先生のところへご挨拶に伺おう」
突然の進の言葉に、未那は口が半開きだ。
「ただ、結婚そのものは、俺が命宮になってからにしてほしい。来年の試験にまずは挑戦してみる。難関だから一度での合格は難しいだろうが…こういう時、相手が若いと助かるな」
「進ちゃん…」
未那が手元の婚姻届をぎゅっと握り締め、ぼろぼろと泣き出した。
「未那ちゃん…」進が未那を見つめる。「届け、ぐちゃぐちゃだよ」
「あ!」
慌ててテーブルの上で紙のしわを伸ばし始める未那の真剣な横顔を眺めながら、進はぼんやりと、これが幸せというものなのかなと思い、ポケットの中の百円玉を握り締めた。
* * *




