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その5


 静岡から東京に戻った後、珍しく、ぐったりしている様子の進に、弾は冷たい麦茶を差し出した。

「ありがとう…」

「まるで刑事の取り調べでしたね」クスリと笑う弾。

「玲ちゃんは、西園寺家に嫁ぐべくして嫁いだという気がするよ。紗由さまに、これ以上おやつを出せないと告げた時の問い詰められ方を思い出した」

「まあでも、僕も二人の馴れ初めをそこまで詳しく聞いたことがありませんでしたから、楽しいひと時でした」


「…おまえも結婚したら同じ目に遭うんだからな」

「僕はまだ…」

「あーら、ケイコちゃんに聞いてみようかしらん」女声になり弾を見つめる進。

「え?」

「社内恋愛ハンターのアタシの目をかいくぐれると思って?」

「いや、あの…」

「まあいい。逃げられないように頑張れよ」

 進はおいしそうに麦茶を飲み干しながら、さっき玲香にした昔話に思いを馳せた。


  *  *  *


 進が16の頃のことだ。躍太郎が進に、内臓疾患を抱えた弟の望を含め、今後は西園寺家が面倒を見ると告げて以降の一ヶ月間、進にとっては犯罪に手を染めかけていたそれまで以上に、精神的に目まぐるしいものとなった。

 父親が事業の失敗で借金を作った後、両親は行方知れずになってしまい、望の手術費を稼ごうと、チンピラまがいのアルバイトに時間を取られていた進は、入って間もなく有名私立高校を辞めてしまっていた。

 だが、編入するための試験準備を、たったの一週間で済ませるよう、缶詰状態で猛勉強を強いられたのだ。そして、それが終わると、健康状態や身体能力を事細かにチェックされた。

 とは言え、躍太郎夫妻の厚意により、望は無事に手術を終えて病状も安定しており、これまでにない心休まる時間を弟と過ごせるようになったのも事実だった。

 そんなある日、進が華織に連れられてやってきたのは、京都の一角にある古めかしい大きな屋敷だった。


「ご無沙汰しております、重治先生」

「私が西園寺家の主治医を離れて、もう15年ですか…。いや、華織さまの相変わらずのお美しさで、時が経ったのを忘れてしまいそうですな」西川重治がハハハと笑う。

「もう西園寺を離れていらっしゃるご身分なのは承知しておりますが、あえて重治先生に御見立てをお願いしたいと思いまして」

「ほお。こちらのお坊ちゃんですかな」

「ええ。進ちゃん、ご挨拶なさい」

「高橋進です」緊張した面持ちの進が頭を下げる。

「ふむ…」

 重治が進を無表情に眺め回していると、外から小さな女の子の声がした。

「お茶をお持ちしました」


「まあ、可愛いお嬢様。もしかしてお孫さんでいらっしゃいますの?」

 華織が微笑むと、重治は一瞬、医者の顔から好々爺の顔になる。

「ええ、そうです。未那、ご挨拶しなさい」

「西川未那です。いらっしゃいませ」

 お盆をテーブルに置き、両手をついて華織に挨拶する未那。

「こんにちは。西園寺華織です。未那ちゃんは…小学校何年生かしら。きちんとご挨拶ができてご立派だわ」

「3年生です」未那は茶托と茶碗をてきぱきと配りながら、ワクワクした眼差しで華織を見つめた。「重爺。未那、こんなきれいな人、見たことない!」

「そりゃあ、そうだろ。爺だって、いっぱい生きてるが、華織さまより綺麗な人など見たことがないからなあ」

「まあ、先生ったら」


「こっちのお兄さんはだあれ?」重治に確認する未那。

「さあ…自分で確かめてみるか?」

「うん!」

 未那は進の傍らに座り、左手のひらを進の胸にそっと伸ばした。

「な、何?」

 驚く進だが、なぜか体が動かず、華織は何を言うでもなく、その様子をじっと見つめている。


「きれいな人だ! 重爺、このお兄さんは、ここがとってもきれいな人だよ!」

 重治に向かって未那が嬉しそうに叫ぶと、重治は満足そうに微笑んだ。

「そういうことのようです、華織さま」

「お孫さん、英才教育中でいらっしゃいますのね」

「未那は私より見立てが上手でしてな」

「進ちゃん、よかったわね。あなた、これで西川先生のお墨付きよ」

「あ、あの…」

 訳が分からぬ進は、困惑した顔で3人を順番に見回した。そして目が合った途端に未那が立ち上がって叫んだ。

「決めました! 未那は、このお兄さんのおよめさんになります!」


「は?」

「すごいわね、進ちゃん。こんなに可愛いお嫁さんだなんて、楽しみだわね」

 言われてポカンとする進と、満面の笑みの華織を前に、重治が小さく咳払いをした。

「まだ8歳だろ、未那は。早いぞ、それは」

「わかった。婚約だけにする」

「そうね、それがいいわ。婚約だけいたしましょう」

「はい!」

「そうだわ…じゃあこれ」華織は自分の左手にはめていたブレスレットをはずし、未那の左手にはめた。「婚約のお祝いよ」

「ありがとうございます!」

 未那は一礼すると、お盆を抱えて部屋を出、重治と進は閉められた障子をしばらく見つめていた。


  *  *  *


 未那から初対面で一方的に婚約宣言された進だったが、すぐ華織と共に東京に戻り、それ以降、未那と会うこともなかった。

 ただ、未那が胸に手を当て言った“ここがとってもきれいな人”という言葉は、進の心を安らがせた。弟のためとはいえ、道を踏み外しそうになっていた自分を強く恥じていたからだ。

 それ以降、何かあるたびに進は“ここがきれいな人”でいようと、自分に言い聞かせるようにしていた。


 そして華織と躍太郎は、その後10年間、進に対して本格的に“命”の力に関しての伝授や教育を進めた。その傍ら、進は躍太郎が経営する会社での仕事も手伝うようにもなっていて、この週末はフィットネスクラブのトレーナーとして、夫妻の配下の人間たちの新しいトレーニングに取り組んでいた。


「じゃあ、今日はここまで」

「ありがとうございました!」

 メンバーが汗を拭いながらロッカールームへ引き上げていく中、進は器具をざっとチェックした。

“よし。俺も帰るか…。”

 進がふと、2階へ続く階段踊り場付近を見上げた時、華織が若い女性と一緒にいるのが見えた。そしてその女性は、進を目指して階段を駆け下りてくる。


「進ちゃーん!!」

 女性は進に思い切り抱きついた。

「き、君、誰?」

 女性はその問いには答えず、いったん体を離すと、進の胸の真ん中に自分の左手を置いた。

「あ…」進の脳裏に記憶が甦る。「西川…未那ちゃん…?」

「ピンポーン!」

「…大きくなったねえ」


 思わず笑顔で未那の頭を撫でる進に、未那は一転、ムッとした顔で言う。

「進ちゃん、モテないでしょ」

「ん?」

「進ちゃん…」

 溜息交じりの華織が近づいてきた。

「そういう時は、綺麗になったねとか、見違えちゃったよとか、言うものじゃないかしら?」

「そうですよね。お世辞でも、そんなふうに言うのが大人のオトコというものです」

「…綺麗になったね」不満げに言い直してみる進。


「で、華織さま。この後、どうしたらよろしいですか?」

 未那は、進を完全に無視して華織に話しかけた。

「進ちゃん。未那ちゃんを送ってあげて。今日から、あなたのお隣さんですから」

「お隣さん?」

「私、来月からこちらの学校に通います。それで華織さまに住居を用意していただきました。送った荷物は届いているはずなんですが、まだうかがったことがありません。案内していただけますか」


 未那が言うと、進はそれには答えず華織に言う。

「華織さまが彼女の住居を用意したのはわかりましたが、それが…なぜ私の隣なんですか。右隣はご夫妻のお泊りの際に使う部屋。それ以外の両端の部屋は空けておくはずですが」

「うーん。そのほうが面白そうだからかしらね」

「華織さま。お言葉ですが、安全上の理由から、今の形になっておりますが」


「私が入ると安全ではなくなるとでも言うんですか?」未那が肩をすくめる。

「暴漢でも侵入したら、ご夫妻をお守りするので精一杯です」慇懃無礼に述べる進。「綺麗なお嬢さんまで手が回らないといけませんので」

「私、ご夫妻をお守りする追加要員のつもりですけど」

「何だ、それ」

 華織の前であるにも関わらず、ムッとした顔で乱暴な口になる進。

「進ちゃん…」

「あ…失礼いたしました」慌てて頭を下げる進。

「彼女ね、合気道と空手、それぞれ2段なの。テコンドーもやってるのよね。まあ、あなたには及ばないにしても、この齢にしたら、けっこうすごいでしょう?」

「未成年ですので、銃に関しては残念ながら、空気銃しか所持資格を持っていませんが、普通の銃も扱いは海外でそれなりに勉強しています」


「華織さま。私だけでは安全に不備があるとでも?」

「やだわ、進ちゃん。安全云々なんて、全然面白くないじゃないの」

 ケラケラと笑う華織。

「私は、大事な息子が可愛いフィアンセと、どんなドラマを繰り広げるのかを見守りたいだけ」華織は進の頬にそっと触れた。「最終回までね」

「華織さま…」


「ということですので、ご案内、よろしくお願いいたします」

「君、防衛大学校にでも通うの?」

「医大です」未那が進をキッと睨む。「私、西川重治の後継者ですから」

「そういうことよ、進ちゃん。つまりね、彼女は神命医を目指しつつ、私の元でも働いてもらうつもりなの」華織が優しく微笑んだ。


 有無を言わせぬ二人の女性の微笑みに、進はその場を黙って引き下がるしかなかった。


  *  *  *


「うわぁ…広い…綺麗…」

 部屋に案内された未那は、辺りを見回し、あちらこちらに駆け寄っては、撫で回したり、壁や引き出しを開けたりをしばらく繰り返していた。


「1Kくらいかなと思ってたんです。30平米くらいの。でも、ここ…2LDKで…スペースがそれぞれ広いし、シューズインクロークや、ウォーキングクローゼットまであるし…びっくりです」

「70平米ぐらいだね。ところで荷物それだけ?」


 進は、届いていた荷物の少なさに驚いていた。みかん箱ダンボール4箱と黒いビニール袋がひとつ、クーラーボックス、大き目のボストンバッグしかなかったからだ。

 家具は、収納に関しては壁のほとんどに備え付けになっており、リビングテーブルとソファ、ダイニングテーブルとソファ、ベッド、電化製品などは、華織のほうで用意してあったが、未那は何も用意していないようだった。


「はい。華織さまが電化製品とテーブルと椅子を用意してくださるとおっしゃったので、机も家に置いて来ました。これがあれば、勉強机にもなりますし、人を呼ぶ予定もありませんから十分です」

 未那がダイニングテーブルを撫でながら笑う。

「安全上、ここに一般人は呼べません。あくまで寝て食べて勉強する場所です」

「…そうか」進は、さっき未那に言った事を少し後悔した。


「すみませんけど、お台所、貸していただいていいですか?」

「もしかして、鍋もないのか?」笑う進。

「行平鍋はあるんですけど…収納スペースを見て揃えるつもりでした。食器もです。今あるのは、ご飯茶碗と湯のみとコップ、お皿が大中小1枚ずつとお箸だけです」

 そう言いながら、未那は黒いビニール袋のガムテープをはずしていく。

「とりあえず持ってきた道具で引っ越し蕎麦を打たせていただきます。今日、お手数をおかけしたお詫びと、ご挨拶までということで」


 進は、未那が次々と包みを解き、出して来る蕎麦打ち道具一式に目を見張った。鍋は行平鍋だけだというのに、一般家庭にさほどあるとは思えない道具は持参しているのだ。

「それって…蕎麦包丁? すごいね…」

「はい。これがないと蕎麦粉を打っても、出来上がりが巨大蕎麦がきになってしまいますので」未那が笑う。

「…だよなあ」進も笑った。

「お台所、お借りしますね」

 未那は新聞紙から取り出した道具を、エプロンや布巾と一緒に大きなボストンバッグに入れ、傍らのクーラーボックスを肩にかけると、立ち上がった。


  *  *  *


「すごーい! リビングがもっと広いです!!」

 未那は進の部屋に着くと、自分の部屋以上に興味津々の様子で、進に案内してくれとせがむ。

「4LDKで120平米ちょっとだよ」

「やっぱり進ちゃんは特別なんですねえ…。はあ。びっくりしたら、おなかすいちゃいました」

「お蕎麦つくりに来たんじゃなかったっけ?」

「あ。そうでした!」


 未那は持ってきた荷物を慌てて取り出し、蕎麦を打ち始めた。

 打ち上がった蕎麦を蕎麦包丁で程よい幅に切り分け、ゆで始めると同時に、クーラーボックスから取り出した卵焼きと煮しめをレンジで温めていく未那。

「これは麺つゆ?」

 進がペットボトルに入った褐色の液体を指差す。

「はい。これ以外にも、変わりツユということで胡麻ツユも作りますね。あとは、超変わりツユも。イタリアンな感じも意外に合うんですよ」


「へえ…。料理、慣れてるの?」

「そうですね。私が12になった頃、両親が家を離れて離島で医療活動を始めたものですから、私と妹は家事をしてました」

「妹さんはいくつ?」

「3つ下、中学3年です。出来がいいんですよ。京都屈指の受験校にトップで合格しました。同じく医大を目指してます。美人ですし」


「へえ、すごいね。でも…君がいなくなって大丈夫?」心配そうに尋ねる進。「あ…いや…お姉さんと離れる淋しさとか、家事も負担が増えるわけだろ?」

「うちには重爺のお弟子さんたちが何人か下宿していて、その面倒を見るのにお手伝いさんが2人います。それと重爺の彼女も手伝ってくれてます」


「彼女?」

「重爺、ばあちゃまが亡くなった前も後も、女が切れたことありませんから」未那が淡々と言う。

「はあ…」進は重治が何歳なのかを考えていた。

「でも、いいんです。重爺の神命医としての力は、そういう女性たちに支えられていると私は思っています。華織さまのお力が躍太郎さまに支えられているように、必要なことなのではないでしょうか」


「えーとさ、ところで君は今も僕と結婚する気なの?」

「はい、もちろん」

「じゃあ、重治先生と同じように、力を維持するためなら浮気公認てこと?」

「重爺と同じレベルに達してから再度質問してください」

 そこでタイマーが鳴り、未那は蕎麦を鍋から揚げ、水でしめ始めた。


「座ってください。すぐにお持ちしますから」

 進は微笑む未那に圧倒され、席に着いた。


  *  *  *


「へえ、芸大出身なんですか。見えないですよねえ。それこそ防衛大学校とか自衛隊っていう感じ」

「よく言われる」

「進ちゃんの絵、見たいです」

「うーん。じゃあ、これ」

 進がテーブルの下にあるスケッチブックを渡すと、未那は食い入るようにそれを見始めた。


「とっても綺麗な絵…ここと同じ…」

 未那は嬉しそうに微笑むと、進の胸にそっと触れた。

「見た目と違って繊細なタッチとは言われるかな」

「風景画が専門?」

「絵は元々、入院中の弟に外を見せるために描き始めたものだから」

「弟さん、どこか悪いんですか?」

「悪かった」

「じゃあ、今は…」

「7年前、交通事故で亡くなったんだ。最初に未那ちゃんと会った頃に、躍太郎さまたちのおかげで持病の手術を受けさせてもらって、もともとの病気自体は快癒したんだけどね」


「あ…ごめんなさい…」

「気にしないで。生まれた直後からほとんど病院暮らしだった弟だけど、最後の3年間は元気な普通の子どもに戻れた。幸せだったと思うよ。躍太郎さまたちのご厚意がなければ、10年前の時点でダメだったはずだから」

「進ちゃんも弟さんも、いろいろ大変だったんですね…」


 ポロポロと涙を流す未那を見て、進は不思議な気持ちに包まれた。警察から西園寺家の別宅に引き取られた時、弟の話に華織も同じように涙していたのを思い出したからだ。

「ありがとう」


「私、明日お墓参りにうかがいます。進ちゃんのことは任せてくださいと、義姉としてお話してきますから」

「あのー…」進は頭をポリポリと掻いた。「気持ちは嬉しいんだけどね。弟もびっくりすると思うから…」

「初めての邂逅とは、そういうものではないでしょうか?」


「いや…あのね…」軽く唇を噛む進。「そういうことじゃなくてさ。俺たち、結婚するほどお互いを知らないでしょう?」

「私としては、あなたを知るには十年前のあの一瞬で十分なんですが」

「ごめんね。俺の力が足りなくて」

 目をそらす進に、未那はにじり寄る。

 

「私たちの結婚、あなたには何一つマイナス要素がないと思うんですけど?」

「え?」

「華織さまは、いずれあなたを命宮にとお考えなのだと思います。かなり真剣に仕込んでいらっしゃると聞きました」

「いや…それは…」

 自分はまだ力不足だと思っていた進は、未那の言葉にたじろいだ。

「その時、私はあなたの力になれます。だって私は、あの西川重治を継ぐ者なのですから」

「でも…」


「私を味方にすれば、あなたには、もれなく付いてくるんです。

 西川重治の見立てと調整が。神命医系統から得られる情報も。その情報は、西園寺グループが散々お金をかけて得るものよりも、確かなものです。

 しかも、私の母は機関のメインメンバーの親戚筋。そちらの情報も…ご所望なら差し上げます」

「説得というより、脅迫に聞こえるな」笑う進。

「どうしても欲しいものというものもあります」

「俺は、そんなにたいしたものじゃないよ」


「いいえ。10年前、あなたの胸に触れてから、それ以上に綺麗な人には出会いませんでした。再会した時は、もっともっと綺麗になってた…」

 未那が涙ぐんだ。

「それに、この石は…あなたの綺麗さを、ずっとずっと伝えてくれていたんです!」

 未那が差し出す左手のブレスレットの光を見て、進は一瞬意識を失いかけた。

「これは…華織さまの…?」

「この石は…10年間、あなたと私をつないでいてくれました」微笑む未那。「私のことが気に入らなければ仕方がありません。ですが、形式的な結婚でも、あなたには利益があるということ、もう一度考えてみてください」

 未那はブレスレットをはずすと、進の左手に握らせ、部屋を出た。


  *  *  *


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