坊やの冒険者登録
書き置き一枚を残されたエマとエドガーは、その紙切れを何度も読み返しては、声もなく肩を震わせた。フィンは、もぬけの殻になった家の前に立ち尽くし、しばらくの間、動くことができなかった。
残された者たちの時間は、そこで止まったまま―― だが、旅立った当人の時間は、否応なく先へと進んでいく。夜の闇に紛れて村を飛び出してから、幾日が過ぎただろうか。
西を目指す道中、ルークの日々はひたすら地味なものだった。火を起こすのにも一苦労し、腹が減れば近くの川に入って魚を捕まえる。運が良ければ、跳ねるように逃げるホーンラビットを組み伏せて、その日の食事にありつけた。
(――前世でも、キャンプなんてしたことなかったのにな)
苦笑しながらも、案外どうにかなるものだと、ルークは変な感心をしていた。
だが、油断できない夜もあった。
ある晩、寝入りかけたところを、緑色の小鬼――ゴブリンに嗅ぎつけられたのだ。とっさに飛び起きて事なきを得たものの、心臓が止まるかと思うほどの恐怖だった。
(――このままじゃ、いつか寝てる間にやられる)
その夜を境に、ルークは本格的に魔力の使い方を練り始めた。身体強化の要領で、魔力を全身に巡らせることまではすぐにできた。だが、それを「気配を薄める」方向に変換する感覚は、まるで別物だった。
何度も失敗を重ね、焚き火の前で独り、あの獣の言葉を思い出す。
(――闇の器、ね)
ある晩、ふと魔力の流れを意識の外側へ、薄く広げるように伸ばしてみた瞬間。まとわりついていた虫の羽音が、ふっと遠のいた気がした。
(――これ、か……?)
完璧にはほど遠かったが、確かな手応えがあった。それから毎晩、ルークはその感覚を磨き続けた。
そうして十数日が過ぎた頃、ようやく遠くに、大きな都市の輪郭が見えてきた。
バロメア。メレンド村から西へおよそ二百キロ、カレンディア王国でも有数の商業都市だった。地方から人が集まり続け、活気に満ちている一方で、その繁栄の陰には、貧富の差もはっきりと横たわっているという。
高くそびえる城壁の前には、荷馬車や旅人の長い列ができていた。門番が一人一人、通行料を徴収している。
「――え」
ルークは、自分の懐にある小銭を数えて、絶句した。到底、足りない。
「なあ坊主、金、足りねえのか?」
背後から、場違いに明るい声が聞こえた。振り返ると、ボロボロの服を着た少年が、人懐っこい笑みを浮かべて立っていた。
「俺はジャック。見たとこ、お前一人みたいだな」
「……ルークだ」
「金がねえなら、正面から入るのは諦めな。こっちに、いい道があるんだ」
ジャックはにやりと笑うと、城壁沿いを歩き出した。案内されたのは、雑草に覆われ、一見しただけでは気づかないような、壁の根元の小さな穴だった。
「――昔っから、こういう抜け道があんだよ。俺らみたいなのが、たまに使わせてもらってる」
狭い通路を這うようにして進み、抜けた先に広がっていたのは、ごちゃごちゃと入り組んだ路地だった。城壁の内側、ダウンタウンと呼ばれる一角らしい。
「ここが俺たちの縄張りだ」
案内された先には、ジャックと似たような身なりの子供たちが、八人ほど固まっていた。年の頃は八歳から十二歳ほど。皆一様に、痩せた体つきをしている。
「こいつら、俺の仲間。似たような境遇のやつを見かけると、たまにこうやって拾ってやってんだ」
どこか誇らしげに言うジャックに、ルークは思わず聞き返した。
「拾って、どうすんだよ」
「ここで一緒に暮らして、稼ぐんだよ。まあ、坊主はまだ小せえし、俺らのねぐらで大人しくしてな」
その言葉に、ルークはむっとした。
「いや、働かせてくれよ」
「は? お前いくつだよ」
「六歳」
「ぶは、六つのガキが何言ってんだ。危ねえから、大人しくしてろって」
笑い飛ばそうとするジャックに、ルークはなおも食い下がった。
「でも何かやらせてくれよ。役に立つから」
根負けしたように、ジャックは肩をすくめた。
「――しゃあねえ。じゃあ、厩舎の掃除でも頼まれてくれや。それくらいならな」
案内された厩舎は、糞尿と藁の匂いが充満する、なかなかの惨状だった。他の子供たちが顔をしかめる中、ルークは黙々と手を動かし始めた。
小さな体に見合わない速さと丁寧さで、みるみるうちに厩舎が片付いていく。
「――は?」
様子を見に来たジャックが、目を丸くして立ち尽くした。
「お前、これ、どれだけ早いんだよ……」
「言っただろ、役に立つって」
「いや、待て。まさかとは思うけど、力仕事もできたりすんのか?」
「ああ、できるぞ」
「ハッタリだろ、それ」
半信半疑のジャックに連れられ、次にルークが任されたのは、市場の裏手で荷馬車から降ろされる木箱の運搬だった。大人でも二人がかりで運ぶような木箱を、ルークは危なげなく、一人で軽々と持ち上げてみせる。
「な――!?」
周りにいた大人たちからも、驚きの声が上がった。
「お、おい、ジャック。この坊主、何者だよ」
「……俺が聞きてえよ」
呆然とするジャックの顔を見て、ルークは少しだけ、してやったりという気分になった。
その日稼いだ金は、皆の食事代に化けた。硬いパンだけだった食卓に、久しぶりに具の入ったスープが並び、子供たちは無邪気にはしゃいだ。
「――やるじゃねえか、ルーク」
夕暮れの路地で、ジャックが感心したように肩を叩いてくる。
「これくらい、当然だろ」
軽口を返しながらも、ルークは通りの向こうに広がる光景に、思わず目を奪われていた。
石畳の大通りには、見たこともない人々が行き交っていた。長い耳をした線の細い者、丸太のような体格に立派な髭を蓄えた小柄な者、獣の耳と尻尾を持つ者――エルフ、ドワーフ、獣人。メレンド村では聞き話でしか知らなかった種族たちが、ごく当たり前のようにそこかしこを歩いている。
「――お前、ぽかんと口開けて。田舎者丸出しだぞ」
からかうジャックに、ルークは慌てて口を閉じた。
(――これが、都会ってやつか)
異世界に来たことは、もう十分理解していたつもりだった。それでも今、初めて本当の意味で「違う世界に来たんだ」と実感させられた気がした。
バロメアに落ち着いて早々、ルークが向かったのは冒険者ギルドだった。
「――冒険者に、なりたいんだけど」
受付のカウンターに向かって、精一杯背伸びをしながら告げると、受付嬢はきょとんとした顔で、ルークを見下ろした。
「……坊や、迷子? ミルクの時間はもう終わったわよ」
周囲にいた屈強な冒険者たちが、堪えきれないというように吹き出す。
「おいおい、こんなちびっ子が冒険者だってよ!」
「五つや六つだろ、どう見ても! お前の母ちゃんはどこだ!」
どっと沸き起こる笑い声に、ルークは顔を赤くしながらも、負けじと声を張り上げた。
「6歳だけど、力はあるんだ! 荷物運びだって、大人よりできる!」
「はいはい、坊やは家帰って寝てな。うちは十三歳からって決まってるんだよ」
受付嬢は苦笑しながらも、きっぱりとそう告げた。
(――くそ、力はどうにかなっても、歳だけはどうにもならねえのか)
悔しさを噛み殺しながらギルドを後にするルークを、外で待っていたジャックが、にやにやしながら出迎えた。
「――どうだった?」
「うるせえ」
ふてくされるルークの様子に、ジャックは声を上げて笑った。
「まあ、いいじゃねえか。しばらくは俺たちと一緒に稼いでいけよ」
その言葉に、ルークは毒気を抜かれたように、小さく息を吐いた。
(――ま、悪くねえか)
振り出しの旅は、思わぬ形で、新しい仲間を連れてきたようだった。




