嘘
――ここは、どこだ。
気がつけば、薄暗く不毛な大地に、ルークは一人立っていた。空も地面も、境界の曖昧な灰色に沈んでいる。
目の前に蹲るのは、おぞましいまでの巨躯を持つ獣だった。狼の顔。グリフォンを思わせる翼。そして、こちらを品定めするようにゆらりと揺れる、大蛇の尾。
喉の奥から絞り出すような、地の底より響く声が、頭の中に直接流れ込んでくる。
『――いずれ、お前は私のものになる』
「――なん、だと」
『闇の器としては、お前はなかなかに心地がいい。同じ属性を持つ者ほど、私を受け入れやすいのでな』
「闇の、属性……?」
『私の力を使わずにいられるほど、この世界は甘くはない。いずれ、お前は自ら望んで、私を求めるようになる』
言葉を返そうとした瞬間、視界が白く弾けた。
目を覚ました時、ルークは見慣れた自分の部屋の天井を見つめていた。
(――夢、か……?)
やけに生々しい感触が、まだ体の芯に残っている。ぼんやりとした頭で身を起こそうとして、ふと右足の小指に違和感を覚えた。見下ろすと、爪の先だけが、黒く染まったまま戻らなくなっていた。
(――これが、代償ってやつか)
重い体を引きずるように起き上がったところで、階下から言い争うような声が聞こえてきた。
時は、少し遡る。
森で気を失ったルークを前に、フィンたちは半泣きになりながら、村まで大人を呼びに走った。
「大変なんだ! ルークが、ルークが化け物になって……!」
その一言は、瞬く間に村中を駆け巡った。
話を聞いた神父は、しばらく言葉を失ったように立ち尽くしていた。
(――あの時、感じたあの違和感は。まさか、本当に)
命名式の夜、指先に感じたあの一瞬の異物感。「まさか」と自分に言い聞かせて、ずっと蓋をしてきたものが、音を立てて崩れていく感覚があった。
「――化け物だと? !」
ブルーノは、以前の敗北の記憶も相まって、誰よりも大声で騒ぎ立てた。その隣で、村長の顔にも、隠しきれない険しさが浮かんでいた。
「――放っておけん話だな」
村長が歩き出すと、ブルーノもすぐさま後を追った。神父もまた、重い足取りでその後に続いた。村長と同じ思いというわけではない。だが、あの違和感の正体を確かめずにはいられなかった。
エドガーの家の前に、村長を先頭にした一団が押しかけたのは、その日の夕刻のことだった。
「エドガー、話がある。息子を出せ」
「――何の用だ」
戸口に立ちはだかったエドガーの声には、これまで聞いたことのない硬さがあった。
「惚けるな。森で何があったか、聞いておるだろう。あの子供が――化け物に姿を変えたとな」
「馬鹿な。誰がそんな戯言を」
「戯言だと? 現場を見た子供たちが、口を揃えて言っておるのだぞ!」
声を荒げる村長に、エドガーは一歩も引かなかった。
「――お前たちの誰か、この目で見たのか。子供の言うことを鵜呑みにして、頭ごなしに決めつけているだけじゃないのか」
その剣幕に、村長はわずかに怯んだものの、すぐに態度を立て直した。
「言うことを聞け、エドガー。あの子は村を出て行ってもらう。それが村のためだ」
「――ふざけるな」
「もし、お前たちがあの子についていくと言うなら。お前たちも一緒に、村を出て行ってもらうことになるがな」
その一言に、家の中で聞き耳を立てていたエマの体が、大きく震えた。
「なんてこと、言うのよ……!」
声を荒げて飛び出していきそうになるエマを、エドガーが手で制した。
「――帰れ。今日のところは、それだけ言っておく」
押し問答の末、村長たちは苦々しい顔をしながらも、ひとまず引き上げていった。神父だけが、最後まで何かを言いたげな顔で、家の方を一度だけ振り返っていた。
両親が二階に上がってきた時、ルークはすでに目を覚まし、ベッドの上に座っていた。
「――ルーク」
エマの声は、震えていた。エドガーもまた、いつもの落ち着きをどこかに置き忘れたような顔をしていた。
「近いうちに、村を出るぞ。三人で、な」
その言葉に、ルークは唇を噛んだ。誤魔化す気力すら、今は湧いてこなかった。
「――噂は、本当だ」
絞り出すように、ルークは告げた。
「俺は、闇属性を持ってる。祠にあったモノが、勝手に体の中に入ってきて……それで、化け物なんかに変わっちまったんだ」
しばらくの沈黙があった。エマの目に、みるみる涙が浮かんでいく。
「……それが、どうしたの」
「――は?」
「あんたが、闇属性だろうと、化け物に変わろうと。あんたが、あんたであることに、変わりはないでしょう」
震える声で、それでもはっきりと、エマは言い切った。エドガーもまた、静かに頷いた。
「一緒に行くぞ、ルーク。三人でな。それ以外の道は、俺たちは選ばん」
その言葉が、あまりにもまっすぐで。ルークは、これ以上何も言えなくなってしまった。
(――くそ。こんなの、狡いだろ)
目頭が熱くなるのを堪えながら、ルークはただ、小さく頷くことしかできなかった。
その夜、両親が寝静まった頃を見計らって、ルークはこっそりと家を抜け出した。向かった先は、教会だった。
「――こんな夜更けに、何の用だ」
扉を開けた神父は、ルークの顔を見るなり、僅かに身を強張らせた。
「頼みがあって、来ました」
ルークは、洗いざらい話した。自分が闇属性を持っていること。祠にあった何かが体に入り込んだこと。あの日、確かに自分が化け物に変わったこと。
「――噂は、本当です。俺は、村を出て行きます。」
「……それで?」
「両親は、関係ありません。ただの、善良な人間です。俺がいなくなれば、村長だって、そう酷いことはしないだろうけど……それでも、お願いします!両親に、何かあったら」
深く頭を下げるルークを、神父はしばらく無言で見下ろしていた。
「――お前が、生まれながらの悪人ではないことくらい、分かっている」
絞り出すような声だった。
「だが、私にも、この胸のざわめきを消すことはできん。それでも――」
神父は、大きく息を吐いた。
「お前の両親には、私から目を配っておこう。それくらいは、してやれる」
「……ありがとうございます」
深く一礼して、ルークは踵を返した。
家に戻ったルークは、まだ起きて待っていた両親に、精一杯の笑顔を作ってみせた。
「ごめん、心配かけた。――わかったよ。一緒に、村を出よう」
その言葉に、エマがほっとしたように頬を緩め、エドガーも安堵の息を吐いた。
(――ごめん)
心の中でだけ、ルークは詫びた。
両親を、この先も追われる身にするわけにはいかなかった。悪魔の力を宿した自分と一緒にいる限り、いつまでも平穏な暮らしは望めない。それだけは、どうしても譲れなかった。
深夜。寝息を立てる両親の顔を、ルークはしばらく見つめていた。
(――育ててくれて、ありがとう)
声には出さず、そう告げる。
枕元に、短い書き置きを一枚だけ残し、ルークは静かに、夜の闇へと足を踏み出した。
振り返らずに、ただ前だけを見て。
振り出しの人生は、ここから、本当の意味で動き出そうとしていた。




