化け物
物音に気づいたのか、影の狼の一頭がこちらへ向かって跳んできた。
「危ない!」
ルークは咄嗟にアンナを突き飛ばし、代わりに自分がその爪を受け止めた。腕に走る鋭い痛みに、思わず顔をしかめる。もう一頭がフィンとボブに迫るのを見て、ルークは地を蹴った。
「くらえっ!」
振り抜いた拳が、影の狼の顎を捉える。実体はあるのに、どこか手応えの薄い、奇妙な感触だった。狼は一声高く鳴くと、黒い霧となって霧散していく。
もう一頭がフィンに飛びかかろうとした瞬間、ルークは低い姿勢から突っ込み、その脇腹に思い切り蹴りを叩き込んだ。
「消えろってんだ!」
二頭目もまた、断末魔の唸りを残して闇に溶けるように消えていった。実体を持たない使い魔だったからこそ、命を奪ったという実感は薄かったが、それでも肩で息をするほどの力を使った。
「くそ、こいつ――目障りな。だが、今は構っていられん」
振り返った男は、忌々しげに吐き捨てると、祠の方へ向き直った。次の瞬間、結界が軋むような音を立てて、緩やかに解けていく。
「な――」
祠の奥から、黒く小さな何かが、意思を持ったように宙に浮かび上がった。それは一直線に、ルークの胸へと飛び込んでくる。
「な!待て」
「があああああっ!!」
焼けるような激痛が、全身を貫いた。地面をのたうち回りながら、ルークは自分の内側で、何かが急速に混ざり合っていくのを感じていた。
やがて痛みが引いた時には、傷口はすでに塞がっていた。
「――返せ。それは、私のものだ」
男の目に、初めて明確な怒りが浮かんでいた。手のひらに集束していく漆黒の光の槍。
「シャドウランス」
放たれた槍が、唸りを上げて突っ込んでくる。とっさに横へ跳んで躱すが、かすった右肩から鮮血が飛んだ。
「うぐっ……!」
だが、痛みよりも先に、体の奥から沸き上がる力の方が強かった。
(――なんとしても、フィンたちを)
全身の輪郭が、内側から作り変えられていく感覚。毛皮が、爪が、そして――一対の翼が、背から突き破るように広がっていく。
「ル、ルーク……?」
フィンの怯えたような声が、遠くから聞こえた。
そこに立っていたのは、もはやルークとは似ても似つかない異形だった。二本の足で地を踏みしめる、人型の輪郭。だが全身を覆うのは、漆黒の狼の毛皮。背からは焦げ茶色の翼が大きく広がり、腰の後ろでは、紫がかった鱗に覆われた尾が、獲物を探すように蠢いていた。優に二メートルを超える巨躯。開いた口からは鋭い牙が覗き、金色の双眸が、ぎらりと爛々と光っている。
姿を変えたルークの視界に映るのは、無数の敵。フィンも、アンナも、ボブも、目の前にいる全てが、敵として映る。
(――ギ、ギ……)
(――イヤ、チガウ)
頭の奥で、必死に食い止めようとする自分がいた。
(――アイツダ。アイツヲ、ヤレバイイ)
辛うじて焦点を結んだ視線の先、痩せぎすの男だけを見据える。喉の奥から、獣のものとは思えない咆哮が漏れた。
「な――化け物……!」
男は怯んだ様子を見せながらも、すぐさま足元から黒い影の帯を放った。
「影縛り」
伸びてきた影の帯が両足に絡みつくが、変わり果てた肉体は、その程度の拘束をものともせず引き千切った。男は舌打ちしながら距離を取り、目の前に漆黒の膜を展開する。
「シャドウベール」
簡易的な防御の膜。だが、そんなものに構っている余裕はなかった。ルークの喉の奥に、黒く渦巻く炎が集束していく。
「ゴアアアアッ」
吐き出された黒炎が、防御の膜ごと男を呑み込んだ。
「なっ――消えない、だと……!?」
男の悲鳴じみた声が響く。黒炎は執拗に燃え広がり続けた。シャドウベールは膜ごと黒く焼け焦げ、防御としての体を成さなくなっていく。
「くっ……!」
素早く後方へ跳び下がり、間合いを大きく取り直す。
「近づけるものかっ――!」
手のひらから、立て続けにシャドウランスが放たれた。一本、二本、三本。狙いを絞らせない乱射に、ルークは低く姿勢を落とし、地を這うように駆けた。
(――ギ、ギィッ)
左の翼をかすめた一撃に、体勢が僅かに崩れる。それでも止まらず、木々の陰を縫うように距離を詰めていく。
「くそ、化け物のくせに――」
舌打ちと共に、男はさらに二本、追撃の槍を撃ち込んでくる。ルークは強靭な脚力で跳躍し、頭上を飛び越えるように槍を回避した。着地と同時に、目の前まで肉薄する。
「な――!?」
初めて男の顔に、明確な焦りが浮かんだ。とっさに手をかざし、目の前に半透明の氷の壁を張る。
「アイスシールド――」
だが、間に合わなかった。ルークは振り抜いた右腕を、力任せに横薙ぎに叩きつける。
バギィッ、という鈍い音を立てて、氷の壁が粉々に砕け散った。勢いの止まらない拳は、そのまま男の脇腹を捉える。
「がはっ――!」
衝撃に身体を「く」の字に折り曲げながら、男の体が吹き飛んでいった。木の幹に叩きつけられ、そのままずるずると崩れ落ちる。
だが、ルークは止まらなかった。弾丸のように地を蹴り、崩れ落ちる男に向けて、間髪入れず蹴りを放つ。
「――!」
寸前で、男の姿がふっと影の中に沈み込んだ。影渡りだった。標的を失った蹴りは、そのまま背後の巨木を捉える。
どぉん、という重い音と共に、太い幹が真っ二つに裂け、大きく吹き飛んでいった。
もはや、憎まれ口を叩く余裕すらなかったのだろう。男の気配は、遠く離れた木々の間に、音もなく消えていった。
「――ば、化け物……」
ボブの震える呟きが、静まり返った森に響いた瞬間、ルークの全身を包んでいた漆黒の輪郭が、ゆっくりと解けていった。毛皮が、翼が、尾が、光の粒子のように崩れて消えていく。
元の小さな体に戻った途端、張り詰めていた糸が切れたように、ルークの視界が急速に暗転していく。
(――やべ……)
膝から崩れ落ちるように、その場に倒れ込んだ。フィンたちの悲鳴じみた声を、ひどく遠くに聞きながら、ルークの意識はそのまま闇に呑まれていった。




