重なる力
指先が牙に触れた瞬間、世界が止まった。
音が消える。光が消える。背後で迫っていた男の足音も、リーフェの叫びも、全てが水の底に沈んだように遠くなる。
冷たい。
掌から腕へ、腕から肩へ、白い牙が染み込むように溶けていく。痛みはない。ただ自分の輪郭が書き換えられていく感覚だけがあった。
(――ああ)
分かった。これは、取り戻しているのだ。奪っているのではない。元あった場所へ、戻している。
頭の奥で、獣が目を開けた。
はっきりと分かった。今までの沈黙とは違う。
「――遅かったな」
低い声が、骨の内側で響いた。
「――小僧」
憎まれ口だった。けれどその声には、ずっと待ち続けた者だけが持つ重みが滲んでいた。
(――うるせえよ。俺だって、来たくて来たわけじゃない)
返事はなかった。代わりに、足元から熱いものが駆け上がった。
右の足首が、燃えるように熱くなった。
視線を落とすまでもなかった。黒が上がってきている。指の先から甲を伝い、踝まで。一息の間に塗り替えられていく。
(――これが、代償)
もう人の足には戻れない。分かっている。分かっていて、手を伸ばしたのだ。
痛みも痺れもなかった。力は、むしろ満ちていた。
その力に押されるように、頭の奥にふっと別の知識が流れ込んできた。
重さ。引き合う力。質量が空間に沈み込み、周囲を引き寄せる法則。
知っている。前の世界の学校で習った。けれど魔法として形にする発想も方法も、これまで思い浮かばなかった。
その方法だけが、今は分かる。獣の記憶が、道筋を示している。
(――グラビティ)
視界が広がった。
周囲の空気の質が変わる。肌の外側に薄い膜のようなものが張られた感覚。見えるわけではない。けれど確かに、自分を中心とした球状の空間が、そこに在る。
(――これが、魔力領域)
自分の魔力が、体の外にまで満ちている。腕を伸ばした先まで。数歩先の地面まで。呼吸をするように領域が脈打つ。
獣が、静かに頷いたように思えた。
目を開けたとき、世界は動き出していた。
男の剣が、振り下ろされている。
ルークは領域の中で、一歩だけ横にずれた。剣は空を切った。男の目が僅かに見開かれる。
避けられた。それも、読みではなく。
領域の中にいる限り、男の動きが「分かる」のだ。魔力の流れ。空気の揺れ。足が地面を踏む重さ。言葉にできない感覚が、全身に染み渡る。
(――違う。さっきまでとは、まるで違う)
けれど。
ルークは自分の掌に視線を落とした。
それでも、まともに斬り合って勝てるとは思えなかった。
確かに力は上がった。感覚も鋭い。けれど男は技術の怪物だ。フェイントも、関節外しも、圧倒的な経験に裏打ちされている。素の斬り合いでは、やはり押されるだろう。
前世の記憶の中に宇宙の話でダークマターというものがある。
光では見えない。けれど質量だけは確かにある。宇宙にある物質の八割以上が、これだと言われていた。星も人間も、残りの一割ちょっとにすぎない。
正体は分かっていない。分かっているのは、質量があるということだけだ。
ずっと考えていた。この世界にも、きっとそれはあるのだと。けれど魔法に反映する方法が、どうしても分からなかったのだ。
今ならどうか。
重力の使い方が手に入った今なら、そこにその像を重ねられる。
見えないが質量はそこにある。その知識を、そのまま魔力領域の中に描いていく。
グラビティの形が変わった。
かかる範囲を、自分で決められる。ここから、ここまで。領域の中に、見えない線を引くように。
(――これなら)
けれど、使いこなせるかは別だ。
やってみるしかない。
「――リーフェ! 下がれ!」
ルークは叫んだ。
「――え?」
「――ここから離れろ! 巻き込む!」
戸惑いながらも、リーフェは弓を抱えて後ろへ飛び退った。
男が再び踏み込んでくる。剣が横に唸る。ルークは構わず、掌を前に突き出した。
「――グラビティ」
魔力領域の中に、重さが生まれた。
一瞬で空間が軋む。見えない手が男の肩を掴んだように、巨体が前のめりに沈む。膝が曲がり、足が地面にめり込み、剣の切っ先が土を削った。
十倍。
自分の体重の十倍が、全身にのしかかる重さだ。常人なら数秒と耐えられない。血が全部足へ引きずり下ろされ、頭に血が回らなくなって、あっという間に意識を失う。
強化人間でも、そこは変わらないはずだ。
筋肉や骨は鍛えられる。薬や処置で、限界まで引き上げることもできる。けれど脳だけは鍛えようがない。頭へ血を送れなければ、どれだけ体が強くても意識は落ちる。
それでも男は、崩れなかった。
膝が曲がり、足が地面にめり込みながら、耐えている。常人の倍ほども持ちこたえたのは、強化された体が血を押し上げているからだろう。けれどそれも限界だった。顔色が変わる。虚ろな目がぐるりと上を向き、黒目が引きつって白目が見える。口の端から泡が溢れた。
(――効いてる)
男の手が震えている。剣を握る手の血管が浮き出て、皮膚が裂けた。気を失いかけているのだ。痛みがないから、苦痛で覚醒することもできない。限界を超えているのに、体だけが勝手に動こうとしている。
「――ガ、ア、ア」
男が一歩を踏み出した。
ぐしゃり、と嫌な音がした。足の骨が折れる音だ。それでも男は進もうとする。次の一歩。膝が割れる。三歩目。腿の骨が砕ける。
痛みを失った体は、命令に従って壊れながら前へ進む。
「――やめろ」
ルークは思わず呟いていた。
「――もう動くな。壊れるぞ」
返事はなかった。男の目は、もう何も映していない。ただ世界樹の方向へ、体が引きずられている。
それが、哀れだった。
この男にも、かつては名前があったはずだ。冒険者として戦い、笑い、生きていたはずなのだ。それが今は、ただ命令を果たすために壊れていく人形になっている。
(――誰が、こんなことを)
怒りが、胸の奥から湧き上がった。
男はもう、立っているだけだった。
ルークは領域の重さを緩めた。男の体が少しだけ浮き上がる。けれどもうその時には、男の体は壊れていた。膝から下は原形を留めておらず、腕は肩から垂れ下がり、息だけが荒く漏れている。
それでも男は、剣を握っていた。
ルークは剣を抜いた。
歩み寄る。足が震えていた。戦いに慣れたはずなのに、この一歩が、ひどく重い。
ルークは男の前に立って、低く呟いた。
「――悪いな」
男の虚ろな目に、一瞬だけ光が戻った気がした。
◇
焚き火の音が聞こえた。
どこかの野営地だった。夜の森。薪が爆ぜ、肉の焼ける匂いがしている。
焚き火を囲んで、四人で笑っていた。
大盾を抱えた大柄なタンクの男が、焦げた肉を頬張って顔をしかめる。それを見た痩せた魔法使いの男が、杖を振り回して腹を抱えた。白い僧衣の女のヒーラーが、呆れたように二人を叱りながら、自分も肩を震わせている。
「――おい、お前もなんか言えよ」
大盾の男が、笑いながら自分の肩を叩いた。剣を膝に置いたまま、つられて笑った。
危ない依頼も、冗談みたいな失敗も、その夜に分け合った笑い声も。全部が楽しかった。この四人で、どこまでも行けるのだと思っていた。
あれは、いつのことだったか。
みんなは、どこへ行ったのだろう。
思い出そうとして、頭の奥が白く霞んだ。名前が出てこない。顔が滲む。ただ、楽しかったという気持ちだけが、温かく胸の底に残っていた。◇
男の口が僅かに動いた。声にならない言葉が、唇の形だけで零れた。
ルークには、それが何と言ったのか分からなかった。
ただ、その目が、ひどく穏やかだったことだけが分かった。
ルークは目を閉じて、剣を振り下ろした。
鈍い手応えがあった。男の体がゆっくりと崩れる。幅広の剣が手を離れ、地面に転がった。
静寂が戻った。
領域が、ふっと消える。張り詰めていたものが切れて、全身から力が抜けた。ルークは剣を支えにして、その場に膝をついた。
「――ルーク!」
駆け寄ってきたリーフェが、肩を支えてくれた。翠の瞳が、潤んでいた。
「――終わったの?」
「――ああ」
息を吐く。
足元を見た。右の足首から下は、完全に黒く染まっている。けれど不思議と、怖くはなかった。ただ静かだった。
頭の奥で、獣が低く笑った気がした。
(――これで、満足か)
返事はなかった。けれどその沈黙は、もう空虚ではなかった。
東の空が白み始めている。
世界樹の葉が、朝の光を受けて淡く輝いていた。
その梢から一枚の葉が、ひらりと舞い落ちてくる。
ルークの目の前の地面に、音もなく降り立った。




