朝の光の下で
目を開けると、天井があった。
木の梁。吊るされた薬草の束。鼻を刺す青い匂いと、甘い蜜蝋の香り。
(――ヴェーラの家か)
体を起こそうとして、全身が鉛のように重いことに気づいた。戦いの後の、あの底の抜けたような疲れだ。腕を上げるのさえ億劫だった。
天井を見たまま、頭の奥へ呼びかけた。
(――おい)
返事は、少し遅れて来た。
『――何だ、小僧』
(――聞きたいことがある)
『――申せ』
(――このまま侵食が進んで、全部お前のものになったら。お前は俺の体で、何をするつもりだ)
間があった。
『――何もせぬ』
(――は?)
『――勘違いするな。街を焼きたいわけでも、人を喰らいたいわけでもない』
声は低く、淡々としていた。
『――我の望みは一つだ。天へ戻る。第七の座へ』
(――天へ?)
『――元の座へ戻る。それまでの間、器が要る。それだけのことだ』
言い切る声に、迷いはなかった。ただ、何かに縋るような硬さがあった。
侵食の先に待つのが、暴走ではないと分かった。それは少しだけ安心で、少しだけ、怖かった。この獣は、本気で待っているのだ。
「――ルーク!」
どすん、と床が揺れた。
視界の端から、大きな熊の顔が飛び込んでくる。目が真っ赤に腫れていた。
「――起きたんだなぁ! よかったんだなぁ!」
「――ガロン。声が、でかい」
「――ごめんなんだぁ。でも、でも、おで、ずっと心配で、一晩中、ここに」
言葉にならない声で泣き始める巨体を、ルークは呆れて眺めた。包帯の巻かれた脇腹が痛々しい。こいつも傷だらけのくせに、人の心配ばかりしている。
「――お前こそ、怪我は」
「――おでは大丈夫なんだぁ。ちょっと切っただけだから」
「――ちょっとの顔じゃないだろ」
笑おうとして、喉が引きつった。ガロンの頬を、ぼろぼろと涙が伝っていた。
生きている。互いに。
それだけのことが、胸に染みた。
「――……でも、五人、死んだんだなぁ」
ガロンが洟をすすって言った。
「――おでの横の木から、一人落ちたんだなぁ。盾の外だったんだなぁ。もっと早く前に出てたら。もっと大きな盾だったら」
「――ガロン」
ルークは天井を見たまま言った。
「――橋は、最後まで抜かれなかったんだろ」
「――……うん」
「――あれが落ちてたら、敵は広間まで来てた。ヴェーラ婆も、エルヴィンも、寝かされてた怪我人も、全員だ。五人じゃ済まなかった」
喉が痛んだ。声が掠れていた。それでも言葉を止めなかった。
「――守れなかった数は、お前が数えなくていい。守れた数を、俺が数える」
「…………」
「――お前が橋の出口に立ってるから、俺は後ろを見ずに走れた。今回だけじゃない。ずっとだ」
ガロンの顔が、くしゃりと歪んだ。
「――ルークは、そういうこと、急に言うんだなぁ」
大きな肩が震えて、涙がまた増えた。
ルークは目を逸らして、天井の梁の数を数えるふりをした。
夕方、長老の広間に呼ばれた。
だるい体を引きずるように運ぶルークの隣に、リーフェが並んでいる。彼女も包帯だらけだった。昨夜は一睡もしていないのか、目の下に濃い隈ができている。
広間には長老が一人で座していた。傍らには、折れた腕を板で固定されたエルヴィンの姿もあった。顔色はまだ悪い。けれど背筋は真っ直ぐに伸びていた。
「――報告は受けた」
長老の声は静かだった。
「――聖域に、無断で入ったな」
「――はい」
ルークは頭を下げた。リーフェも、隣で黙って頭を垂れる。
「――約束は破られた。それは事実だ」
重い沈黙が落ちた。
リーフェの肩が小さく震えている。彼女が罰を覚悟していることは、痛いほど分かった。
(――彼女は、俺のせいで)
口を開きかけた時、長老が先に言った。
「――だが、侵入者は聖域の根に触れる前に討たれた。世界樹は無傷だ。お前たちが入らなければ、取り返しのつかぬことになっていただろう」
長老は目を閉じた。
「――掟は掟だ。リーフェ、お前には三十日の謹慎を命じる。ルーク、お前は、明朝この森を去れ。今夜は傷を休めていくがいい」
「――はい」
「――そして」
長老が目を開けた。澄んだ瞳が、まっすぐにルークを射抜く。
「――礼を言う。森を守ってくれたこと、感謝する」
ルークは顔を上げた。
長老の皺の刻まれた手が、懐から何かを取り出した。
一枚の葉だった。
掌ほどの大きさ。縁が銀色に縁取られ、中央から淡い光が滲んでいる。ルークが聖域で拾い、リーフェに預けた、あの葉だった。
「――世界樹の葉は、神聖な品だ。本来なら、お前のような余所者には触れさせてはならぬ」
長老はそれを、静かにエルヴィンへ差し出した。
「――傷を癒し、病を払う。だが、失われた命までは戻せない。それは、お前たちも分かっているな」
「――はい」
エルヴィンは折れた腕を庇いながら、深く頭を下げた。
「――今夜、これを煎じる。腕は元に戻るだろう。他の負傷者にも、少しずつ分け与える」
その言葉に、ルークの胸が痛んだ。
助かる者がいる。けれど、助からなかった者も、確かにいる。
五人。名前も顔も知らない人たちが、その数だけ、もうこの森にいない。
「――それと」
長老は、ルークの足元に視線を落とした。
「――お前の足のことは、ヴェーラから聞いた。世界樹の葉は、この病を癒せぬ。お前の体を蝕むものは、病ではないからだ」
「――……」
「――すまぬな。だが、満月花は、少しは助けになるだろう。持っていけ」
長老が目配せすると、リーフェが小さな布包みを差し出した。昨夜摘んだ満月花を、ヴェーラが薬に仕立て直したものだ。
「――ありがとうございます」
受け取る手が、微かに震えた。
その夜、ルークはヴェーラの家の裏の縁に座っていた。
眠れなかった。目を閉じると、あの男の目が浮かぶ。
足音が近づいてきた。大きな影が隣に腰を下ろして、縁の板がきしんだ。
「――眠れないんだなぁ」
「――お前もだろ」
「――うん」
しばらく、虫の声だけが続いた。
「――あいつの最期の目が、穏やかだったんだ」
ルークは膝の上の手を見たまま言った。
「――何か言ってた。声にはならなかったけど。……笑ってたみたいに、見えた」
「…………」
「――名前も分からない。どんな奴だったのかも。でも昔は誰かと笑って生きてた奴なんだろうなって、思った」
喉が詰まった。
「――俺は、あいつを壊した」
「――ルーク」
「――分かってる。止めなきゃいけなかった。放っておけば世界樹が燃えて、もっと死んでた。何度考えても、あれしかなかった」
指に力が入った。爪が掌に食い込む。
「――それでも、手に残ってる。剣を振った時の感じが。……思ってたより、軽いんだ」
「――軽い」
「――それが、いちばん怖い」
声が小さくなった。
「――人を斬ったのは、初めてなのに。手が静かだった。この先、殺すたびに静かになっていく気がする。いつか何も感じなくなるんじゃないか。そうなった時、俺はまだ、俺なのか」
言い切ってから、子供が口にする言葉じゃないと思った。
ガロンはすぐには答えなかった。
大きな手が、膝の上で組まれたり解かれたりしている。
「――おでは、橋の出口で、人を谷へ落としたんだなぁ」
「――ああ」
「――あの時、ごめんって思ったんだなぁ。今も、思ってるんだなぁ」
太い指が、自分の膝を握った。
「――思わなくなったら、おで、盾を置くんだなぁ。そう決めてるんだなぁ」
ルークは顔を上げた。
「――ルークは今、軽いって言ったんだなぁ。軽いって、気づけたんだなぁ。なら、まだルークなんだなぁ」
うまい言葉ではなかった。
けれど胸の底の冷たいものが、ほんの少しだけ温んだ。
「……お前、たまにずるいこと言うよな」
「――ずるくないんだなぁ。ほんとのことなんだなぁ」
夜が明けるまで、二人は並んで座っていた。
翌朝、ルークとガロンは集落の入口に立っていた。
朝霧が薄く漂っている。見送りに来たのは、リーフェと、ネイルと、ヴェーラと、エルヴィンの四人だけだった。謹慎の身のリーフェも、長老に許されて、集落の入口までは出てきていた。
「――……本当に、行くのね」
リーフェが、ぶっきらぼうに言った。腕を組んで、そっぽを向いている。
「――ああ。帝国に向かう。ガロンの兄貴を探しに」
「――そう」
しばらく、何も言わなかった。
風が吹いて、彼女の髪を揺らした。翠の瞳が、何度も瞬きをした。
「――あんた、変よ」
「――何がだ」
「――だって、聖域に入ったのに、全然悪びれてないし。人族のくせに、闇の精霊に好かれてるし。それに、あたしの足を引っ張ってばかりだったし」
「――最後のは憶えが無いな」
「――うるさい!」
顔を真っ赤にして怒鳴る。それから、ふっと力が抜けたように、小さな声で続けた。
「――……でも、ありがとう」
「――何が」
「――一緒に来てくれて。あたし一人じゃ、あの人たちを止められなかった」
ルークは返す言葉を探した。けれど、うまく見つからなかった。
「――お互い様だ。お前がいなきゃ、あの根元にも辿り着けなかった」
「――……ふん」
そっぽを向いたまま、リーフェは手を差し出した。
握手だった。
小さな、少し冷たい手を、ルークは握り返した。
「――約束。ちゃんと案内できるようになるから。また来なさいよ」
「――ああ。楽しみにしてる」
「――ガロンも。元気でね」
「――リーフェも、元気でなんだぁ。おでは、絶対に兄貴を見つけて、また来るんだぁ」
ガロンが大きな手で、リーフェの頭を撫でた。子供扱いするな、と叫ぶ声が、朝霧に溶けていく。
エルヴィンが、静かに歩み出た。折れた腕は包帯で固定されたままだ。
「――剣の稽古は、続けろ」
「――はい」
「――お前はまだ、伸びる。攻めの形を、自分なりに磨け」
「――ありがとうございました」
深く頭を下げる。師匠、と呼ぶには短すぎる付き合いだった。けれど確かに、あの人から何かを受け取った。
ネイルが片手を挙げて、いつもの軽い笑みを浮かべた。
「――帰りに、また顔を出せよ。今度はもっといい肉を用意しとく」
「――楽しみにしてます」
「――ヴェーラ婆に伝言はあるか」
「――誰が婆だい、このおちびが!」
最後に、ヴェーラの怒声が響いて、全員が笑った。
ルークは背を向けた。
木々の間を、朝日が細く差し込んでいる。足元には、まだ濡れた苔が淡く光っていた。
(――行こう)
ガロンと並んで歩き出す。背中に、見送る視線が刺さるのを感じた。振り返らなかった。振り返れば、足が止まってしまいそうだった。
右足首から下は、黒く染まったままだ。
けれど、一歩一歩、確かに地面を踏みしめていた。
谷の砦では、一人の男が羊皮紙を睨んでいた。
クラウスは眼鏡を押し上げて、報告書の末尾に目を通した。
「――襲撃隊、生還者は十一名。素体は聖域の根の手前で死亡。世界樹の葉は、取得できず」
報告に来た兵が、緊張で顔を強張らせている。クラウスは机の上の羊皮紙を、静かに伏せた。
「――素体の最期の状況は」
「――はっ。生還者の一人が遠目に見たところでは、敵の一人が重い力のようなものを放ったとのことです。素体は動きを止められ、その後、討たれたと」
「――重い力」
クラウスは顎に指を当てた。
「――おそらく、強い負荷で血流を阻害されたのだろう。脳は、強化の対象外だからな」
淡々とした声だった。
「――素体の痛覚遮断と、限界解除は有効だった。身体能力は、期待以上の動きを見せた。だが、脳への血流を断たれれば、意識は保てない」
羊皮紙に、短く何かを書き付ける。
敵が誰であったかには、一切触れなかった。興味がなかった。重要なのは、素体が何で止まったか。それだけだった。
「――葉の件は」
「――はっ。実は、本国からの通達が届いております」
兵が差し出した封書を、クラウスは無言で開いた。
短い文面だった。今回の作戦は失敗と見なす。素体と兵の損耗は看過できない。ついては、砦への追加の人員と物資の投入は凍結する。現状の規模での研究継続のみ認める、と。
「――凍結か」
「――生還者の話では、あと一歩のところまでは行ったようです。あの二人が現れなければ、突破されていたのは向こうだったと。それでも、結果は結果だと」
「――そうだろうな」
クラウスは封書を畳んだ。怒りも落胆も、その声には滲んでいなかった。
「――ギリギリだった。だが、ギリギリでは意味がない。大規模な作戦を再び許されないのは当然だ」
窓の外に、薄い雲が流れていく。
砦の研究が止まるわけではない。今いる研究員と、今ある設備と、毎月の物資は維持される。生き残った十一名の兵も、傷が癒え次第、砦の守りと護衛の任に戻る。研究室の中でも、結果を出してきたこの男を切り捨てるほど、本国は愚かではなかった。ただ、次の襲撃を支えるだけの余力は、もう回ってこない。
男は、小さく息を吐いた。
「――貴重とはいえ葉を守るため為に死者を出してまでして守るものかね」
誰に聞かせるでもない、呟きだった。
「――次は、力ずくではない方法を考える。与えられた範囲で、必要なものを揃えるだけだ」
羊皮紙の上で、ペンが再び走り始めた。




