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読めない男

 男が地面を蹴るより先に、ルークは決めていた。

(――出し惜しみはしない)

 エルヴィンは魔法を使わない手合わせで、半歩の動きだけで自分をあしらった。しかもあれは手を抜いた動きだった。その人の腕をこの男は膝ひとつで折った。

 素の体で向き合って、勝てる相手ではない。

 腰の剣には手を掛けなかった。抜いてもあの男の前では何の足しにもならない。

 怖くないわけがなかった。喉が貼りついたように乾いている。膝の裏が勝手に笑っていた。それでも怖いから先に切る。四十七年生きた頭が、冷えた声でそう計算していた。

「――リーフェ。下がって援護を頼む」

「――何するつもり」

「――最初から本気で行く」

 魔力の奥底にある、あの感覚を引きずり出した。

 全身の骨が軋んだ。

 皮膚の下で何かが蠢く。筋肉の繊維が太く変わり、背筋が引き絞られ、爪が黒く鋭く伸びる。視界が赤く染まり、息が熱くなる。

「――グア」

 喉の奥から声が漏れた。

 その瞬間右足の指がまた一本、黒く染まった。靴の中で色だけが静かに塗り替わっていく。痛みも痺れもない。ただ器に近づいたのだと分かった。

(――広がったか)

 構わない。今は生き残るのが先だ。

 横目にリーフェの息を呑む気配があった。けれど彼女は何も言わず、矢を番えた。

 男が動いた。

 速い、けれど見える。

 横薙ぎの剣を爪で受ける。火花が散った。腕に重い衝撃が来たが、足は地面を掴んで動かなかった。

(――受けられる)

 押し返せる。そう思った時には、二撃目が来ていた。

 速いだけではない。前触れがないのだ。

 肩も肘も手首も動かさず、視線さえ動かない。構えから斬撃までの間に、人間なら必ず挟む「溜め」がすっぽり抜け落ちている。ずっとそこを見て先に動いてきた。体のどこかが次の動きを教えてくれるからだ。

 この男の体は何も教えてくれなかった。

 刃が肩を掠めた。熱い線が走る。

「――ぐっ」

 浅い。けれど確かに斬られた。変わった皮膚でも、刃は通る。

 血が服の内側を這う感触に、背筋が冷えた。

(――怖い)

 認めざるを得なかった。変身しても尚、優位に立てない。この男は理屈の外にいる。

「――ルーク!」

 リーフェの矢が飛んだ。

 男は首を傾けて避けた。見もしない。けれどその一瞬だけ、剣が止まる。

 懐へ飛び込み、爪を男の脇腹に叩き込んだ。肉が裂ける感触。男の体が揺らぐ。

 それでも倒れない。

 折れた肋骨ごと体をひねり、剣を叩きつけてきた。爪で受ける。腕が痺れ、足は動かなかった。

 変わった体には十分な質量があった。叩けば肉に届くし受けても吹き飛ばされない。力と速さだけなら、既にこちらが上。

 それなのに、押されている。

 一合。二合。三合。

 袈裟に来ると見せて足を払う。足を払うと見せて柄で顎を打つ。どれも当たらない。けれど避けるたびに、半歩ずつ下がらされていた。

 背中に世界樹の根が近づいてくる。

 退がれる場所が、減っていく。

 胸元へ突きが来る。弾こうと爪を振るったが、空を切った。

 囮の突き、軌道を変えられていた。

 ごき、と鈍い音が鳴る。肩が外れる音。

 外れた肩の分だけ腕が伸び、死角の下から剣が跳ね上がってきた。

「――ッ!」

 首を引く。頬に熱が走った。顎の下を切っ先が掠めていく。あと指一本深ければ、喉だった。

 冷たい汗が背中を流れる。

 今のはフェイントだ。

 視線を外す。肩を落とす。重心を僅かに崩す。そうした「らしい動き」でこちらの反応を誘っている。基本の駆け引きだ。けれどそれを見抜く経験が、まだ足りなかった。

 痛みを失って壊れてしまっても、男の体は剣を知っていた。長い歳月で積み上げた型が、骨の髄に染み付いている。エルヴィンを折った腕だ。伊達ではなかった。

 関節を外したのは、ここぞという一度だけ。それが一番深く刺さる場所を、体が覚えている。

 力で勝てても技で負ける。読みを狂わされフェイントに騙される。

 変身した速度のおかげで、致命傷は避けられた。けれど押されている。確実に少しずつ。

「――くそっ!」

 後ろへ飛んだ。男との間合いを取り、掌に魔力を集める。

(初見の魔法ならどうだ)

 ソフトボール大の黒い球体が生まれた。

「――ダークスフィア」

 放った球体が男の目の前で膨れ上がった。

 半径二メートルほどの闇が男の全身を呑み込む。押し出すような圧力が走り、男の巨体が後ろへ吹き飛んだ。地面を転がり世界樹の根にぶつかって止まる。

 けれど死んでいない。

 男はゆっくりと起き上がった。鎧の胸が大きく裂け、肩の関節は外れたままぶら下がっている。口元から血が流れていた。それでも表情は変わらない。

 荒い息をついた。

(――当たったが決定打にはならなかったか、、次は対処されるだろう)

 勝てない。そう悟った。

 変身してもなお、押されている。力で上回っても勝ち切れない。そして時間が経てばいずれ魔力が尽きて、変身も解ける。

「――ルーク危ない!」

 リーフェの声にはっとした。

 男が世界樹の根へ手をかけていた。

 登ろうとしている。幹の窪みに指を掛け、体重を預けて上へ。目指しているのは、上方で微かに光る無数の葉だった。

「――させない!」

 リーフェが矢を放った。男の背中に突き刺さる。それでも男は登り続けた。

 走った。あの男より早く根元に辿り着かなければならない。

 根の盛り上がった場所を駆け上がろうとした、その時だった。

 足元の根がぼう、と淡く光った。

 地面の底から響く鼓動が、一際強く脈打った。

 立ち止まった。胸の奥がぎゅっと掴まれるような感覚に襲われる。

 根の絡み合う隙間。そこに白く光る何かが挟まっていた。

 反り返った巨大な牙。

 長さは人の腕ほどもある。無数の根が絡みつき、まるで樹に抱かれて眠っているようにも見えた。

(――これか)

 頭の奥の獣がはじめて、声にならない唸りを上げた。

 歓喜とも渇望ともつかない、深い響きだった。

 分かった。この森に来てからずっと自分を引いていたのはこれだ。自分の中に在るべき何かの、欠けた欠片。

(――触れたら、戻れなくなる)

 そんな予感がした。

 背後で男の剣が空を切る音がした。登るのをやめてこちらに降りてきている。

 選択の余地はなかった。

 ルークは牙に向かって手を伸ばした。


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