境界を越えて
走りながら、ルークは考えていた。
考えるべきことは山ほどあった。あの男の剣のこと。肩を外して背後に回す腕のこと。矢を見もせずに避ける反応のこと。普通の人間にはあり得ない動きだ。けれど「あり得ない」で片付けた瞬間に、次の一撃で首が飛ぶ。
(――痛みがない。だから関節を壊しても止まらない)
理屈では分かる。理屈が分かったところで、怖さが消えるわけではなかった。
耳の奥で、まだ音が鳴っていた。
ごり、と。
木の枝を膝で折るような、あの音だ。エルヴィンの左腕が、男の膝の上で折れた音。
目の前で見た。
あの人は、この集落に来て、最初に木刀を交えた相手だった。広場で向かい合った時、構えらしい構えも取らずに、ルークの打ち込みを半歩の動きだけで流した。何度打っても届かなかった。避けることだけは褒められたが、最後は肩に木刀を当てられて、膝をついた。
魔法は使わない、と言われた試合だった。それでも、手も足も出なかった。
(――あの人が、折られた)
一歩も退かなかった。ネイルの前に割り込んで、長剣で受けて、それでも腕を掴まれた。
自分より強い人が、あの男に負けた。
走りながら、頭の中で数を並べた。
エルヴィンから、自分は一本も取れなかった。
あの男は、そのエルヴィンの腕を、素手の左手と膝で壊した。
変身すれば、力は上のはずだ。
祠の夜は、考える前に体が動いていた。バロメアの追手は強かったが、あの姿になれば押せると、どこかで知っていた。負けるとは、あまり思わなかった。
けれど今度は、違う。
(――押せるのか)
痛みを知らない相手を。殴っても斬っても、止まらないかもしれない相手を。関節を自分で外して、あり得ない角度から斬ってくる相手を。
力が上でも、技で外されたら。エルヴィンに半歩で流された時と、同じように。
その先を考えるのをやめた。やめた途端に、別の絵が浮かんだ。
首に刃が掛かる絵。
痛みを知らない虚ろな目が、表情ひとつ変えずに、こちらの喉を見ている。
背筋が冷えた。
(――死ぬかもしれない)
言葉にして、初めて、その重さが腹の底に落ちた。
指先が冷たい。柄を握る掌に汗が滲んで、滑りそうだった。喉が乾いて、唾を飲み込む音がやけに大きい。走っているのに、足の裏の感覚が薄かった。
震えているのは、足か。それとも、心か。
どちらでも同じことだった。
隣を走るリーフェの横顔を盗み見る。唇を引き結び、前だけを見ていた。さっき師匠の腕が折れる瞬間を目にしたはずだ。足元は驚くほど乱れていない。けれど握った弓の指先が、白くなるほど力んでいる。
「――大丈夫か」
「――うるさい。今は喋らないで」
突き放す声が少し震えていた。ルークはそれ以上何も言わなかった。
霧が薄くなってきた。
代わりに、空気が澄んでいく。肌に触れる風が冷たい。耳の奥で、遠くから低い音が響いていた。風の音でもない。水音でもない。もっと腹の底に沈み込むような、鼓動に似た何かの音。
(――これは)
胸の奥が、とくん、と鳴った。
自分の心臓ではない。そう思った。同時に、あの森の入口で感じた細い糸が、今度は紐のようにはっきりとこちらを引いていることに気づいた。
(――近づくほど強くなる。もう、無視できない)
頭の奥で獣が身じろぎした。
(――お前から見て、俺は勝てるのか)
返事はなかった。何も言わない。けれどその沈黙の底に、ひどく静かな熱があった。
励ましも、否定もない。それが、かえって怖かった。
木々が途切れた。
月はもう西に傾いていた。それでも白い石柱は変わらず淡く光っている。
境界だった。
柱の向こう側には、世界樹の巨大な影が空を覆うように立っている。昨夜見た時よりも、遥かに近い。見上げれば首が痛くなるほどの高さなのに、不思議と恐ろしくはなかった。ただ圧倒された。
その柱の手前で、リーフェが足を止めた。
「――……ここから先は」
声が掠れていた。
「――あたしたちは、入れない。生まれた時から言われてきたの。聖域は触れてはいけない場所だって。一度入った者は、二度と戻らないって」
彼女の肩が小さく震えていた。
ルークは柱の向こうを見た。足跡が点々と続いている。あの男のものだ。血の跡も混じっていた。確かに聖域の中へ入っている。
「――無理に来なくていい」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
「――お前は師匠の命令でここまで道を教えてくれた。それだけで十分だ。ここから先は俺が行く」
「――何言ってるの」
リーフェが顔を上げた。翠の瞳が揺れていた。
「――あんた、昨日長老に約束したじゃない。聖域には入らないって」
「――ああ。約束は破る」
「――……!」
「――だから、お前は止めてくれてもいい。誰かが破らなきゃ、あいつは世界樹に辿り着く。そうなったら取り返しがつかない。そうだろ」
リーフェは何も言えなかった。唇を噛んで、柱の向こうと自分の手を交互に見つめている。
ルークは目を伏せて、短く息を吐いた。
(――ひどい言い方をしたな)
彼女に選ばせるつもりはなかった。ただ、一人で行ってもいいと伝えたかった。それが逆に、重荷を背負わせたのかもしれない。
……いや。それも半分は嘘だ。一人で行ける、と言い切れる自信は、どこにもなかった。
沈黙が落ちた。
風が止んでいた。梢の囁きも、遠い鼓動のような音さえ、一瞬だけ静まり返る。
「――……あたし」
リーフェが、ぽつりと言った。
「――師匠みたいに、強くなりたかったの」
「――ああ」
「――でも今夜、何もできなかった。矢は全部避けられて。師匠が腕を折られても、見てることしかできなくて」
弓を握る手が、強く震えた。
「――それが悔しくて、悔しくて。……だから、ここで立ち止まったら、きっと一生後悔する」
彼女は顔を上げた。その瞳の揺らぎが、静かに収まっていた。
「――あたしも行く。罰は後で受ける。師匠にも長老にも、全部あたしから謝る」
「――……いいのか」
「――何度も聞かないで。決めたの」
ぷい、と顔を背ける。けれど耳の先は、赤くなっていなかった。ただ強く、真っ直ぐだった。
ルークは小さく笑った。笑うしかなかった。
胸の奥で、ほっとしている自分がいた。
そのことが、何より情けなかった。
「――分かった。一緒に行こう」
二人は同時に、石柱の間を抜けた。
その瞬間、空気が変わった。
音が消えたのだ。梢のざわめきも、虫の声も、全てが吸い込まれるように遠のく。残ったのは足元で苔が潰れる柔らかな音と、自分の心臓の鼓動だけだった。
(――いや、違う)
心臓の音が、二つ重なっていた。
一つは自分の胸の内側から。もう一つは、遥か足元の地面の底から。ゆっくりと、深く、確かに響いている。
「――何、これ」
リーフェが怯えたように周囲を見渡した。精霊の光がない。昨夜あれほど漂っていた淡い粒が、一つも見当たらなかった。
「――精霊が、いない。ここだけ、まるで」
「――隠れてるんじゃないか。怖がってる」
「――何を」
「――分からない。でも、俺たち以外の何かを」
言葉にした途端、背筋が粟立った。
前方に影が見えた。
世界樹の根元。巨大な木の根が地面から盛り上がり、瘤のように連なっている。その手前に、大柄な男が立っていた。
あの強化人間だ。
片腕をだらりと垂らし、もう片方の手には幅広の剣を提げている。全身が血と泥にまみれているのに、その足取りは変わらず安定していた。
男は顔を上げて、世界樹を見上げていた。
虚ろな目の奥で、何かが動いたような気がした。あれほど意志のない人形のようだった男の視線が、一瞬だけ、はっきりと「何か」に引き寄せられている。
(――まさか、こいつも)
引かれているのか。
ルークの喉が鳴った。
男が、ゆっくりと振り向いた。
二人の姿を認めたのだろう。口元が裂けるように歪む。声にならない声が、喉の奥で唸った。
「――ガ、ア」
剣の切っ先が、持ち上がる。
「――来るぞ」
ルークは腰の剣を抜いた。リーフェが弓に矢を番える。
痛みを知らない男と、約束を破った少年と、掟を破った少女。
世界樹の根元で、夜明け前の静寂を破る戦いが始まろうとしていた。
その足元で、何かが、ゆっくりと脈打っていた。




