盾の後ろ
怖い。
ガロンの頭の中には、その言葉しかなかった。
集落の南の入口には、深い谷が口を開けている。谷には一本の吊り橋が架かっていた。縄と板だけの細い橋で、人が二人並べば肩が触れる。
ガロンは、その橋の集落側の出口に立っていた。大楯を地面に突き立て、その裏に体を押し込めている。盾の表面を叩く硬い音が、ひっきりなしに響いていた。
弩の矢だ。
一本。二本。三本。数えるのをやめたのはいつだったか。腕に伝わる衝撃が盾の裏から骨に染みて、指の感覚がなくなりかけている。
(――ルークは、大丈夫なんだろうか)
考えても仕方ないことを考えてしまう。ルークは見張りの娘と一緒に森の奥へ行ったきり戻っていない。狼煙が上がって、角笛が鳴って、気づいたら集落中が走り回っていた。
残れ、と言われたのだ。
ここを頼んだと。
だからガロンはここにいる。理由はそれだけだった。難しいことは分からない。でもルークが頼むと言った。それだけで、体が動いた。
「――熊を倒せば道が開く! 前列、押せ!」
向こう岸から怒鳴り声がした。黒い外套の男たち。数は十を超えている。森の迷路を抜けた連中だ。ここまで来た時点で、並の兵ではないと分かった。
矢の雨が止んだ。
代わりに、橋板を踏む足音。幾つも。
男たちが橋に入ってきた。二人ずつ。縦に長く連なって、ぐらぐらと揺れる板の上を進んでくる。足元が不安定で、速くは走れない。
ガロンは盾の縁から顔を出した。先頭の二人が、橋の出口へ迫っている。
「――うおおっ!」
盾ごと体をぶつけた。
鈍い衝撃。先頭の男の体が宙に浮いて橋の欄干に叩きつけられる。縄が軋み、木が折れる音がして、男は下の闇へ落ちていった。
悲鳴は聞こえなかった。
(――ごめんなんだぁ)
胸の奥がきゅっと縮んだ。殺したくない。でも殺さなければ、後ろの人たちが死ぬ。
次の男が来る。メイスを振り上げた。
ガタン、と盾が揺れた。受けた手首に痺れが走る。もう一度。三度目で腕が悲鳴を上げた。
「――くっ」
歯を食いしばった。頬の内側が切れて鉄の味が広がる。
橋の上の男たちは、前の仲間が詰まって下がれない。後ろの者は前へ押す。縦に伸びた隊列が、橋の上でひしめいていた。
その時、橋の両脇の闇から、弦の鳴る音が重なった。
ガロンの左右十歩から二十歩ほど離れた木の上と岩陰で、エルフの青年たちが弓を引いている。矢は橋の側面へ、横から次々と突き立った。
橋の上の男は、横を向いて矢を避けることができない。揺れる板の上で足を取られれば、そのまま谷へ落ちる。縦に長い隊列の両側から、矢が降ってきた。
向こう岸の弩が、一度だけ木の上へ撃ち返した。短い悲鳴。弓手の一人が、枝から落ちた。
足元から地面が割れた。
太い根が蛇のように這い出して、橋の出口にいた敵兵の足首に絡みつく。長老の精霊魔法だ。男たちが倒れ込む。
「――熊の客人! 今だ!」
木の上から声が飛んだ。
「――助かるんだぁ!」
ガロンは叫びながらメイスを振り下ろした。
ヴェーラは血に濡れた手を布で拭った。
集落の広間は臨時の救護所に変わっていた。床には次々と運び込まれた負傷者が横たえられ、呻き声と薬草の匂いが入り混じっている。
「――ヴェーラ婆、こっちも!」
「――分かってる。今行くよ」
短く答えて次の負傷者に向かう。胸を深く斬られた若い見張りだった。顔色は紙のように白い。傷口を洗い血止めの葉を押し当てる。手が覚えている動きだ。それでも頭の片隅が冷えていた。
(――この傷は、助からない)
年の功とでも言うべきか。分かってしまう。手の施しようがない傷というものは。
それでも薬師の仕事は、手を止めないことだった。助からないと分かっていても布を当て、水を含ませ、そっと手を握ってやる。それが彼女にできる全てだった。
「――ヴェーラ婆」
入口から弱々しい声がした。
顔を上げると、ネイルがエルヴィンを肩に担いで立っていた。ネイル自身も肩を血で染めている。担がれたエルヴィンの左腕はあらぬ方向に曲がっていた。
「――何をしてんだい、この馬鹿どもが!」
思わず怒鳴っていた。だが手は既に動いていた。
「――そこに寝かせな。ネイル、お前も座れ。肩がぐちゃぐちゃじゃないか」
「――俺は後でいいです。師匠を」
「――黙って座りな」
エルヴィンは蒼白な顔で静かに目を閉じていた。額に冷や汗が浮いている。意識はあるのだろう。何も言わないことがかえって痛々しかった。
ヴェーラは折れた腕に触れた。骨が複雑に砕けている。ただ折れたのではない。横から硬いものに叩きつけられて、二本の骨が揃って折れた砕け方だった。
「――よく生きて帰ってきたもんだ」
呟くと、エルヴィンの唇が微かに動いた。
「――……ヴェーラ。外は」
「――喋るな。外のことは長老に任せな」
「――強化された男が、聖域へ向かった。ルークとリーフェが追っている」
「――……そうかい」
ヴェーラの手が一瞬止まった。
あの足の色がふと脳裏に浮かぶ。黒く染まった三本の指。そして世界樹の聖域。
(――繋がりすぎてやしないかい)
偶然だろうか。それとも運命というものか。薬師の長い経験が、胸騒ぎを告げていた。
「――腕は後で必ず治してやる。だから今は黙って寝てな」
彼女は添え木に手を伸ばした。
夜明けが近い。
空が東から薄く青みを帯び始めていた。
ガロンは盾にもたれて座り込んでいた。肩で息をしている。右腕は上がらない。左の脇腹に切り傷があって、そこから血が滲んでいる。
それでも橋は落ちていなかった。
橋の向こうには、もう敵影がなかった。
「――撤退したようだ」
傍らに立つエルフの見張りが言った。若い男だった。髪が乱れ頬に煤がついている。
「――我々の側の死者は五人。負傷者は十を超える。この橋で落ちたのは一人だ。それでも抜かれなかったのは、君のおかげだ」
「――おでは……何もしてねえんだぁ」
「――そんなことはない」
見張りは静かに首を振った。
「――あの盾の後ろにいたから、我々は矢を射られた。君がいなければ橋の出口で全員死んでいた」
ガロンは何も言えなかった。ただ俯いて、盾の表面に刻まれた無数の傷を指でなぞった。
(――五人)
その数が頭の中で何度も響いた。守れなかった人たちがいる。助けられなかった命がある。おでは、もっと早く、もっと強ければ、と。
その時、東の空から鳥の群れが飛び立った。
何かが森の奥で起きている。聖域の方角だ。
ガロンは盾の縁を掴んで立ち上がった。傷が痛む。でも立てた。
「――ルーク」
小さく呟く。
「――おでは、ここで待ってるんだぁ。だから、絶対に帰ってきてほしいんだなぁ」
返事はない。夜明けの風が、森の奥から湿った匂いを運んでくるだけだった。
ガロンは盾を握る手に力を込めた。
待つことも、戦いなのだと、誰かが言っていた気がした。




