↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
51/56

届かない矢

 リーフェは走っていた。

 足元の苔が柔らかく沈む。肺が焼けるように痛い。それでも速度は落とさなかった。背後からルークの足音がぴたりとついてくる。

 霧が濃い。長老の結界が道を入れ替えているため、見慣れたはずの森が別の場所のように見えた。世界樹の方角から真っ直ぐ南へ向かったはずが、辿り着いたのは防衛線の東の端だった。

(――師匠。ネイル。間に合って)

 やがて前方の闇に赤い火が揺れた。

 霧が裂けた先に、最初の衝突の跡が広がっていた。

 最初に目に入ったのは地面に倒れた人影だった。見張りの装束。胸から血を流している。その向こうにも一人。さらに向こうにも。黒い外套の兵も何人か倒れている。道を入れ替えられた後続の兵たちの怒声が、霧の向こうで遠く迷っていた。

「――そんな」

 足が止まりかけた。膝の裏が冷たくなる。毎日顔を合わせていた仲間たちだった。

「――止まるな」

 ルークの短い声が背を押した。

 リーフェは唇を噛んで再び走り出す。涙は後だ。今は目の前のことだけを見る。

 防衛線の中ほどで戦っている影が見えた。

 一人は長剣を構えた長い髪の男。師匠のエルヴィンだ。頬に浅い傷がある。息は乱れていないが、立ち位置が普段より低かった。

 もう一人は見たことのない大男だった。右手に幅広の剣を提げ、その動きはどこか歪んでいる。

 リーフェは手近な樹に飛びついた。幹を駆け上がり、太い枝に腰を落として弓を引く。

(――あいつが、見張りを)

 狙いは眉間。距離は三十歩。この距離で外したことはない。

 弦を放した。

 矢は夜気を裂いて真っ直ぐに飛んだ。大男は首を僅かに倒した。それだけで矢は髪を掠めて闇に消える。

「――うそ」

 もう一本。今度は胸元。男は半身になって避けた。さらに一本。膝を狙った矢が空を切る。

(――見られてる)

 男は一度もリーフェの方を見ていない。それなのに矢の軌道を完全に読んでいる。いや読んでいるのではない。体が勝手に反応しているのだ。

 リーフェの手が震え始めた。

 地上ではエルヴィンが静かに言った。

「――ネイル。下がれ」

「――でも」

「――お前の肩は使い物にならん。いいから下がれ」

 ネイルは返事をしなかった。血に濡れた右肩を押さえながら弓を番えている。その視線は男の背中を捉えていた。

 位置関係はいつの間にか変わっていた。男は世界樹の方角に。エルヴィンとネイルは森の外側に。つまり男の背後には聖域へ続く暗い森が広がっている。

 ネイルが矢を放った。

 男の頭を狙った矢は難なくかわされた。だがその瞬間男の視線がネイルに移った。

 口元が裂けるように歪む。

「――ガ」

 男の足が地面を蹴った。一直線にネイルへ。

 その踏み込みの足首に、黒いものが絡みついた。

 影だった。地面を這った影が、男の左足を縛っている。

「――止まれ」

 樹の下で、ルークの低い声がした。

 男の体が、半歩だけ遅れた。

 影はすぐに引き千切られた。痛みを知らない足が、縛りごと地面を蹴ったのだ。

 けれど、その半歩があった。

「――ネイル!」

 リーフェは叫んでいた。

 その叫びよりも早く動いた人影があった。

 エルヴィンだった。

 体ごとネイルの前に割り込んだ。幅広の剣が振り下ろされる。エルヴィンは長剣で受け止め、金属が悲鳴を上げた。

 男の左手が伸びた。

 剣を持たない側の手が、エルヴィンの左の前腕を掴んだ。

「――離せ」

 エルヴィンの右手の長剣が閃く。手首に叩きつけた刃が肉を断ち骨に食い込んだ。

 男は離さなかった。

 痛みを感じない者の指は命令がない限り緩まない。指が血に濡れてもびくともしなかった。

 男は掴んだ腕を、力任せに引き寄せた。

 エルヴィンの体が前へ泳ぐ。

 その腕の下から、男の膝が跳ね上がった。

 掴まれた前腕が、膝の真上に叩きつけられた。

 ごり、と。

 木の枝を膝で折るような音だった。骨が折れる音が、遠く離れたリーフェの耳にまで届いた気がした。

「師匠――!」

 喉が裂けるほどに叫んだ。

 エルヴィンは声を上げなかった。奥歯を噛み締めただけだった。そのまま右手の剣を返し男の手首の腱を断ち切る。ようやく指が開いた。

 折れた腕をぶら下げたまま、エルヴィンは後ろへ跳んだ。ネイルを背中に庇ったまま。

 その横へ、小さな影が滑り込んだ。

 ルークだった。剣を抜いて、二人の前に立っていた。

「――師匠、俺を置いて」

「――黙れ」

 低く静かな声だった。

「――お前を死なせるものか」

 血に濡れた右手の剣が男に向けられる。左腕は力なく垂れていた。それでも構えに揺らぎはなかった。

 命を賭ける者の姿だった。

 男は動きを止めた。

 虚ろな目がエルヴィンとネイルを見た。折れた腕を垂らしてなお立ちはだかる男と、その背に庇われた射手。剣を構えた子供。ここで三人を相手にすれば時間がかかる。それを理解したのかどうか。

 男は視線を逸らした。

 背後の闇。その先にそびえる巨大な影。世界樹の気配。

 近い。目的の場所はこちらの方が近い。

 男はゆっくりと身を翻した。そして走り出した。

 闇の中へ。聖域の方角へ。

「――待て!」

 リーフェは枝から飛び降りた。着地の衝撃で足が痺れたが構わず駆け寄る。

「――師匠! 腕が!」

「――構うな。それよりあれを追え」

 エルヴィンの顔は蒼白だった。額に汗が滲んでいる。それでも声は落ち着いていた。

「――聖域に入られたら取り返しがつかん。リーフェ。行け。ただし一人で行くな」

「――でも師匠が」

「――ネイルがいる。私は死なん」

 リーフェの喉が詰まった。何か言い返したかった。でも言葉が出なかった。

 その時、隣から声がした。

「――俺が行く」

 剣を鞘に収めたルークだった。息を整えながら、真っ直ぐにエルヴィンを見ている。

「――足跡なら追えます。リーフェを借ります。必ず止めます」

「――……頼む」

 エルヴィンが小さく頷いた。

「――リーフェ。お前が先導しろ。この森はお前の庭だ」

「――……はい」

 リーフェは弓を握り直した。手の震えは、いつの間にか止まっていた。

「――行こう、ルーク」

「――ああ」

 二人は同時に駆け出した。男の背中が消えた闇の奥へ。

 背後でネイルがエルヴィンの腕を押さえる気配がした。その声が遠くなる。

「――師匠、しっかり」

「――私のことはいい。死者の確認と、負傷者の手当てを。集落へ報せを送れ」

 リーフェは振り返らなかった。

 ただ前だけを見て走り続けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。