届かない矢
リーフェは走っていた。
足元の苔が柔らかく沈む。肺が焼けるように痛い。それでも速度は落とさなかった。背後からルークの足音がぴたりとついてくる。
霧が濃い。長老の結界が道を入れ替えているため、見慣れたはずの森が別の場所のように見えた。世界樹の方角から真っ直ぐ南へ向かったはずが、辿り着いたのは防衛線の東の端だった。
(――師匠。ネイル。間に合って)
やがて前方の闇に赤い火が揺れた。
霧が裂けた先に、最初の衝突の跡が広がっていた。
最初に目に入ったのは地面に倒れた人影だった。見張りの装束。胸から血を流している。その向こうにも一人。さらに向こうにも。黒い外套の兵も何人か倒れている。道を入れ替えられた後続の兵たちの怒声が、霧の向こうで遠く迷っていた。
「――そんな」
足が止まりかけた。膝の裏が冷たくなる。毎日顔を合わせていた仲間たちだった。
「――止まるな」
ルークの短い声が背を押した。
リーフェは唇を噛んで再び走り出す。涙は後だ。今は目の前のことだけを見る。
防衛線の中ほどで戦っている影が見えた。
一人は長剣を構えた長い髪の男。師匠のエルヴィンだ。頬に浅い傷がある。息は乱れていないが、立ち位置が普段より低かった。
もう一人は見たことのない大男だった。右手に幅広の剣を提げ、その動きはどこか歪んでいる。
リーフェは手近な樹に飛びついた。幹を駆け上がり、太い枝に腰を落として弓を引く。
(――あいつが、見張りを)
狙いは眉間。距離は三十歩。この距離で外したことはない。
弦を放した。
矢は夜気を裂いて真っ直ぐに飛んだ。大男は首を僅かに倒した。それだけで矢は髪を掠めて闇に消える。
「――うそ」
もう一本。今度は胸元。男は半身になって避けた。さらに一本。膝を狙った矢が空を切る。
(――見られてる)
男は一度もリーフェの方を見ていない。それなのに矢の軌道を完全に読んでいる。いや読んでいるのではない。体が勝手に反応しているのだ。
リーフェの手が震え始めた。
地上ではエルヴィンが静かに言った。
「――ネイル。下がれ」
「――でも」
「――お前の肩は使い物にならん。いいから下がれ」
ネイルは返事をしなかった。血に濡れた右肩を押さえながら弓を番えている。その視線は男の背中を捉えていた。
位置関係はいつの間にか変わっていた。男は世界樹の方角に。エルヴィンとネイルは森の外側に。つまり男の背後には聖域へ続く暗い森が広がっている。
ネイルが矢を放った。
男の頭を狙った矢は難なくかわされた。だがその瞬間男の視線がネイルに移った。
口元が裂けるように歪む。
「――ガ」
男の足が地面を蹴った。一直線にネイルへ。
その踏み込みの足首に、黒いものが絡みついた。
影だった。地面を這った影が、男の左足を縛っている。
「――止まれ」
樹の下で、ルークの低い声がした。
男の体が、半歩だけ遅れた。
影はすぐに引き千切られた。痛みを知らない足が、縛りごと地面を蹴ったのだ。
けれど、その半歩があった。
「――ネイル!」
リーフェは叫んでいた。
その叫びよりも早く動いた人影があった。
エルヴィンだった。
体ごとネイルの前に割り込んだ。幅広の剣が振り下ろされる。エルヴィンは長剣で受け止め、金属が悲鳴を上げた。
男の左手が伸びた。
剣を持たない側の手が、エルヴィンの左の前腕を掴んだ。
「――離せ」
エルヴィンの右手の長剣が閃く。手首に叩きつけた刃が肉を断ち骨に食い込んだ。
男は離さなかった。
痛みを感じない者の指は命令がない限り緩まない。指が血に濡れてもびくともしなかった。
男は掴んだ腕を、力任せに引き寄せた。
エルヴィンの体が前へ泳ぐ。
その腕の下から、男の膝が跳ね上がった。
掴まれた前腕が、膝の真上に叩きつけられた。
ごり、と。
木の枝を膝で折るような音だった。骨が折れる音が、遠く離れたリーフェの耳にまで届いた気がした。
「師匠――!」
喉が裂けるほどに叫んだ。
エルヴィンは声を上げなかった。奥歯を噛み締めただけだった。そのまま右手の剣を返し男の手首の腱を断ち切る。ようやく指が開いた。
折れた腕をぶら下げたまま、エルヴィンは後ろへ跳んだ。ネイルを背中に庇ったまま。
その横へ、小さな影が滑り込んだ。
ルークだった。剣を抜いて、二人の前に立っていた。
「――師匠、俺を置いて」
「――黙れ」
低く静かな声だった。
「――お前を死なせるものか」
血に濡れた右手の剣が男に向けられる。左腕は力なく垂れていた。それでも構えに揺らぎはなかった。
命を賭ける者の姿だった。
男は動きを止めた。
虚ろな目がエルヴィンとネイルを見た。折れた腕を垂らしてなお立ちはだかる男と、その背に庇われた射手。剣を構えた子供。ここで三人を相手にすれば時間がかかる。それを理解したのかどうか。
男は視線を逸らした。
背後の闇。その先にそびえる巨大な影。世界樹の気配。
近い。目的の場所はこちらの方が近い。
男はゆっくりと身を翻した。そして走り出した。
闇の中へ。聖域の方角へ。
「――待て!」
リーフェは枝から飛び降りた。着地の衝撃で足が痺れたが構わず駆け寄る。
「――師匠! 腕が!」
「――構うな。それよりあれを追え」
エルヴィンの顔は蒼白だった。額に汗が滲んでいる。それでも声は落ち着いていた。
「――聖域に入られたら取り返しがつかん。リーフェ。行け。ただし一人で行くな」
「――でも師匠が」
「――ネイルがいる。私は死なん」
リーフェの喉が詰まった。何か言い返したかった。でも言葉が出なかった。
その時、隣から声がした。
「――俺が行く」
剣を鞘に収めたルークだった。息を整えながら、真っ直ぐにエルヴィンを見ている。
「――足跡なら追えます。リーフェを借ります。必ず止めます」
「――……頼む」
エルヴィンが小さく頷いた。
「――リーフェ。お前が先導しろ。この森はお前の庭だ」
「――……はい」
リーフェは弓を握り直した。手の震えは、いつの間にか止まっていた。
「――行こう、ルーク」
「――ああ」
二人は同時に駆け出した。男の背中が消えた闇の奥へ。
背後でネイルがエルヴィンの腕を押さえる気配がした。その声が遠くなる。
「――師匠、しっかり」
「――私のことはいい。死者の確認と、負傷者の手当てを。集落へ報せを送れ」
リーフェは振り返らなかった。
ただ前だけを見て走り続けた。




