防衛戦
赤い狼煙が上がった時、エルヴィンは既に南の防衛線に立っていた。
満月の夜。ただでさえ森の精霊が騒ぐ晩だ。足跡の数が増え続けていることもあり、彼は日没前から配置を済ませていた。
「――弓手は樹上に散れ。灯りは使うな。月明かりで足りる」
低い声が闇に溶ける。三十の見張りが音もなく動いた。木々の枝に身を伏せ、弦を引き絞る。その中には、数日前に木蜘蛛の巣から救い出された青年の姿もあった。まだ顔色は悪いが、瞳には強い光があった。
「――長老は」
「――既に結界を組み替え始めています。道を三つに分けるとのことです」
「――そうか」
迷いの森は侵入者を同じ場所に留め置く。だが今夜はそれだけでは足りない。道そのものを入れ替えて敵を小さく分断する。長老の精霊魔法とはそういうものだった。
その時だった。
南の闇の奥から、乾いた笛の音が三度鳴った。
「――ネイルの合図だ」
エルヴィンは目を細めた。
ネイルは森の南端に立っていた。
巡回を終えて戻ろうとした矢先に、闇の中で動く無数の影を見つけたのだ。狼煙を上げ、笛を吹き、そして今は倒木の陰に身を隠して弓を構えている。
(――三十はいる。いや、それ以上か)
揃いの黒い外套。紋章はない。足運びは訓練された兵のものだった。先頭の男が手を挙げると、全員が音もなく散開する。
ネイルは息を殺した。
(――まずい。戻って師匠に知らせる時間はない)
彼は矢を番えた。先頭の男の喉を狙う。
放たれた矢が夜気を裂いた。男は声もなく倒れた。
「――敵だ! 木の上だ!」
外套の兵たちが一斉に弩を構える。無数の矢がネイルのいた倒木に突き刺さった。だが既に彼はそこにいない。軽やかに枝を渡り、別の位置から次の矢を放つ。
一人。また一人。
敵の隊列が乱れる。その隙に彼は笑った。
「――悪いけど、ここから先は通行止めだ」
エルヴィンが駆けつけた時には、既に最初の衝突が始まっていた。
敵は森に踏み込んだ途端に二つに割れていた。長老の結界が道を入れ替えたのだ。先頭の十名ほどは霧の中で迷走し、後続の部隊と切り離されている。
「――風の精霊よ。声を運べ」
エルヴィンが短く唱えると、風が見張りたちの耳に彼の指示を届けた。
「――右の一団は足止めしろ。地の精霊が根を絡ませる。左は射掛けろ。霧に紛れて中央へ誘導する」
樹上から矢の雨が降り注ぐ。地面からは太い根が蛇のようにうねり、外套の兵の足首を絡め取った。悲鳴が上がる。
敵は精鋭だった。倒れた仲間を踏み越え、松明に火をつけて森に投げ込もうとする。炎で森ごと焼き払うつもりだ。
「――水の精霊を」
霧が一斉に濃くなった。投げられた松明が湿った苔に落ち、白い煙を上げて消える。敵の指揮官らしい男が舌打ちした。
「――小細工を。構わん。数で押せ」
顔に覆いをつけた無名の指揮官が、後続を前へ押し出す。数は圧倒的に敵が上だった。見張りの矢が尽きかけている。
「――下がれ。第二線へ」
エルヴィンは自ら前に出た。
長剣を抜く。月の光を弾く白い刃が、迫る敵兵の群れを薙いだ。三人が同時に崩れ落ちる。残りの兵が思わず足を止めた。
「――あれが森の守り手か」
「――怯むな。隊長の言う通りだ。本命はあれではない」
兵の一人が呟いた時だった。
霧の向こうから、重い足音が近づいてきた。
それは一人の男だった。
身の丈は六尺を優に超える。破れた革鎧に太い腕。右手には刃の欠けた無骨な幅広の片手剣を提げている。首筋には黒ずんだ刻印が刻まれている。目は虚ろで焦点が合っていない。
樹上から矢が飛んだ。三本。
男は最小限の動きで首を傾け身を捻った。二本が空を切る。かわしきれなかった一本が左の肩に深々と突き刺さった。
それでも歩みは止まらない。
矢を引き抜くことすらせず歩き続ける。血が衣服を濡らしている。それなのに表情は何一つ変わらない。避けられる矢は避けた。避けられなかった傷を、ただ無視しているだけだ。
(――何だ。あれは)
エルヴィンは剣を構え直した。
男は前列で槍を構える見張りへ正面から歩み寄った。槍の穂先が届く距離。見張りが突き出した刃を、男は半身になって紙一重でかわした。
その隙に別の見張りが動いた。剣を抜いた男のエルフが、音もなく男の左後ろへ回り込む。背中側から斬りつける算段だった。
右腕を体の外へ振っても背中側へ回せる角度は精々七十度。後ろに回った相手には届かない。そのはずだった。
ごき、と鈍い音。男は自ら右肩を外した。
外した腕は本来の可動域を超えて百五十度近くまで背中側へ流れる。剣が後ろを見もせずに振り抜かれ、回り込んだ剣兵の胸元を深く斬り裂いた。剣兵は声もなく崩れ落ちた。正面の槍兵は目を見開いたまま、反射的に後ろへ跳び退いた。
「――何……!」
「――痛みを、感じていない」
エルヴィンは低く呟いた。
男は外れた肩を無造作に自分の手で嵌め直した。関節がもう一度ごきりと鳴る。それでも顔色は変わらない。
もう一人の見張りが矢を放つ。男は首を振って避けた。頬を矢が掠めて血が流れたが、気にする様子もない。
「――後ろに下がれ。こいつは私が止める」
「――師匠!」
背後でまだ年若い見張りの叫び声がした。ネイルだった。血と泥にまみれて駆け戻ってきたのだ。
「――ネイル。持ち場に戻れ」
「――ここは俺が。師匠は他の連中を」
「――行くな」
だがネイルの足は止まらなかった。倒れた若い見張りを庇うように前へ飛び出す。
男の剣が頭の高さで横に唸った。
エルヴィンの剣が間に割って入る。受け流したが衝撃で足が地面にめり込んだ。
その瞬間男の肩がまた外れた。振り抜かれたはずの剣が止まらずに頭の後ろへ回り込む。背中側から返された切っ先が、真っ直ぐに突き出された。
(――後ろから、突きが来る)
エルヴィンは首を捻ってかわした。頬が浅く裂ける。普通の剣士なら絶対に打てない軌道だった。
(――重い。それに型が読めん。ゴールド上位……いや、体の使い方が人のそれではない)
男の顔が初めて動いた。口元が裂けるように歪む。
「――ガ、ア……」
言葉にならない声。意志の灯った目ではない。命じられたことを果たすだけの人形だった。
「――哀れな」
エルヴィンは静かに言って剣を握り直した。
背後ではネイルが荒い息をついて矢を番えている。その肩が血で濡れていることに、エルヴィンは気づいていた。
戦いはまだ始まったばかりだった




