満月花
日が落ちるのを待って、ルークはリーフェと共に集落を発った。
ガロンは留守番だ。長老の許しが出たのは、あくまで二人までだった。
「――気をつけてなんだぁ。何かあったら、すぐ呼ぶんだぞ」
「――分かってる。お前も、ここを頼んだ」
「――まかせるんだぁ」
ガロンは大楯を背負い直し、どんと胸を叩いた。南の見張りが増えているのを、この熊は肌で感じ取っているのだろう。いつもの笑顔が少しだけ引き締まっていた。
森の夜は昼とはまるで違う顔をしていた。
満月の光が梢の隙間から降り注ぎ、苔の上に銀色の斑を作っている。リーフェは小さな灯りの精霊を一つだけ肩に浮かべ、足音を立てずに先を歩いた。
「――聖域に近づくほど、精霊が増えるの。驚かないでね」
「――驚くって、何に」
「――見れば分かる」
半刻ほど進んだ頃だった。
ルークは足を止めた。
空気が変わった。重いわけではない。ただ一歩ごとに、肌を撫でる気配が濃くなっていく。木々の間に淡い光の粒が漂い始めていた。青、白、薄い緑。それらが、まるで呼吸をするように明滅している。
「――これが、精霊か」
「――ふふ。人族には見えない人のほうが、多いのに」
「――見えるのか、俺は」
「――あんたは、見えてる。珍しい」
リーフェが少しだけ意外そうに笑った。
その時、光の粒の一部がふわりとルークの方へ寄ってきた。
墨を溶かしたような、黒い光。
「――……!」
「――闇の精霊ね。人懐こい子たち。あんたのこと、気に入ったみたい」
黒い粒がルークの肩に、頭に、ふわふわと触れては離れていく。くすぐったいような、温かいような感触だった。
(――闇属性がこんなふうに受け入れられるのか)
故郷の村では、闇属性と分かれば神官に疎まれた。それが、ここでは精霊に歓迎される。胸の奥にじわりと温かいものが広がった。
「――何ぼんやりしてるの。もうすぐよ」
リーフェに急かされ、ルークは歩き出した。
やがて木々が途切れた。
目の前に境界があった。
十歩ほどの間隔で白い石柱が弧を描くように並んでいる。表面には古い文様が刻まれ、月明かりを吸って淡く光っていた。その向こう側は不自然なほど静まり返っている。
そして柱の奥のさらに遠く。
空を突き刺すように、巨大な何かが聳えていた。
幹の太さは、集落の大樹すら比べ物にならない。枝は雲を押し分けるように広がり、無数の葉が星のように微かな光を零している。
(――あれが……世界樹……)
息が止まった。
美しい、と思った。同時に体の奥底がきしりと軋んだ。
森の入口で感じた細い糸の引きが、今ははっきりとした手応えを持って、胸の奥を引いている。方向が分かる。あの巨大な幹の根元のほう。地面の下。
(――何かが、いる)
いや、ある、と言うべきか。何か、自分の一部だったものが、あそこに眠っている。そんな確信めいた感覚が頭の中に滑り込んでくる。
「――ルーク」
足が勝手に動いていた。
石柱の一本にあと数歩のところまで近づいた時、手首を強く掴まれた。
「――ちょっと! 何してるの!」
リーフェの顔がすぐ目の前にあった。
「――聖域の中に入らないって、約束したでしょ! 長老との約束なのよ!」
「――……ああ。悪い」
我に返る。自分がいつの間にか、柱の目の前まで来ていたことに気づいて、背筋が冷えた。
「――どうしたのよ。今、すごく変な顔してた」
「――変な顔って、どんなだ」
「――ここじゃない、どこか遠くを見てるみたいな」
リーフェの手はまだ離れていない。少し冷たい指先が微かに震えていた。
(――怖がらせたか)
「――すまん。月が綺麗で、ぼうっとしてた」
「――……へたな言い訳」
彼女は手を離した。
「――でも、約束は守って。あんたを信じて、連れてきたんだから」
「――分かってる。もう大丈夫だ」
頭の奥の獣はやはり何も語らない。ただ沈黙がどこか期待するような静けさに感じられたのは、気のせいだっただろうか。
「――あった」
石柱の外側、境界から十数歩離れた木の根元にそれはあった。
月光を浴びて白い花が咲いていた。
花弁は薄く、透き通るように白い。縁がほんのりと青みを帯びて、中心から、かすかな燐光が滲み出ている。十数輪が寄り添うように群れて、夜気の中で揺れていた。
「――きれいだな」
「――満月花よ。この時間だけ、咲くの」
リーフェがひざまずいて花の根元に手を添えた。
「――摘み方があるの。茎を折っちゃだめ。根元から切る。全部は採らない。半分は残す」
リーフェは腰の革の鞘から、白い小刀を抜いた。
刃まで骨を削り出して作った小刀だった。
「――鉄の刃で切ると、一晩で萎れて薬にならなくなるの。だから採る時は、骨の刃。エルフは昔からそうしてる」
もう一本、同じ小刀を取り出して、ルークに差し出した。
「――あんたの剣は、外して置いて」
「――分かった」
ルークは腰の剣を外して、木の根元に立てかけた。借りた骨の小刀は、軽くて、掌に冷たかった。
言われた通りに、一輪ずつ、慎重に切り取っていく。刃を茎に当てると、ぷつりと小さな抵抗があって、すぐに離れた。指先に触れた茎はひんやりと冷たく、微かに脈打っているような感触があった。
六輪ほど摘んだところで、リーフェが手を止めた。
「――これで十分。ヴェーラ婆に渡せば、練って薬にしてくれる」
「――ありがとう。助かった」
「――別に。あたしは、案内しただけ」
そう言いながらも、彼女は少し嬉しそうに、花の束を布に包んでくれた。
「――治るといいね、あんたの足」
ぽつりと、小さな声で。
「――……ああ」
治ることはない。それは、もう分かっている。だが、その気遣いは、素直に嬉しかった。
帰り道。
月は中天を過ぎ、森の影が長く伸びていた。精霊たちの光が行きよりも少しだけ薄れている。
「――ねえ、ルーク」
先を歩くリーフェが振り返らずに言った。
「――あんたたちは、この後、帝国に行くの?」
「――ああ。ガロンの兄貴を探しに」
「――そう」
しばらく足音だけが続いた。
「――もし、さ。全部終わって、もう一度森に来ることがあったら。……その時は、あたしが案内してあげてもいいわよ」
「――お前、一人で案内するの苦手じゃなかったか」
「――うっ! その時までには、できるようになってるの!」
ぷい、と前を向く。耳の先が赤い。
ルークは思わず笑った。
「――楽しみにしてる」
その時だった。
南の空が赤く染まった。
リーフェが凍りついたように足を止める。
遠く、梢の向こうで、一筋の煙が立ち上っていた。狼煙だ。赤い煙。夜空に溶けずに、不吉な色を滲ませて、ゆっくりと昇っていく。
続いて集落の方角から、角笛が鳴り響いた。長く、低く、重い音。
「――……警鐘」
リーフェの声が掠れていた。
「――南の見張りからの、敵襲の合図……!」
ルークの手が腰の剣に伸びた。
頭の奥で何かがざわりと身じろぎしたような気がした。
「――急ぐぞ!」
二人は同時に駆け出した。




