満月の前日
翌朝、まだ霧の残る広場に、ルークは木刀を持って立っていた。
「――来たな」
先に待っていたのは、エルヴィンだった。腕を組んだまま、いつもの凪いだ表情でこちらを見ている。その後ろでは、リーフェが気まずそうに視線を逸らしていた。
「――長老から、お前の剣を見ておくよう言われた。……というのは建前で、私が個人的に気になっただけだ」
「――あの、俺なんかのために、いいんですか」
「――避けの腕だけで、今まで生き延びてきたのだろう。惜しいと思った」
淡々とした言い方だった。だが、昨日の立ち合いで見せた視線とは、どこか違っている。
「――一つだけ教える。打ってみろ」
言われるまま、ルークは上段から木刀を振り下ろした。エルヴィンは、木刀の腹で軽く受ける。ぱん、と乾いた音。
「――腕で振っているな。だから軽い」
「――体が軽いのは、自分でも分かってます」
「――体重は変えられん。ならば、使い方を変えるしかない」
エルヴィンは、自分の足元を木刀の先で示した。
「――踏み込む足で地面を掴め。膝、腰、肩、腕の順に、力を波のように送る。手先だけで振るな。足の裏から、剣先まで一本の線にしろ」
見本を見せてもらう。振り下ろされた木刀は、同じ軌道のはずなのに、風を裂く音がまるで違った。
(――同じ細腕で、こんなに違うのか)
見様見真似で振ってみる。ぎこちない。もう一度。さらにもう一度。
「――足が遅れている。腰が先に回りすぎだ」
「――はい」
「――そこで止めるな。流れを切るな」
容赦のない指導だった。半刻もしないうちに、腕が重く痺れてくる。
「――今日はここまで。急ぐな。一日で身につくものではない」
「――ありがとうございました」
深く頭を下げたルークに、エルヴィンは小さく頷いた。
「――明日の夜は、聖域の近くへ行く。気を緩めるな」
「――はい」
去っていく師の背中を、リーフェがじっと見つめていた。
「――……師匠が、人に剣を教えるなんて。珍しい」
「――そうなのか」
「――あたしに弓を教えてくれたのは、ネイルで。師匠は、剣しか教えてくれなかったの。それも、最初の三年は素振りだけ」
「――三年……」
「――でも、あたしは今でも、師匠みたいになりたいって思ってる」
ぽつりと零した声は、珍しく素直だった。ルークは、何も言わずに聞いていた。
昼過ぎ。ガロンは集落の入口で、年老いた見張りの男に呼び止められていた。
「――君が、檻の馬車を探しているという熊族か」
「――そうなんだぁ。何か、知ってるのかぁ」
老人は、遠くを見るような目で、ゆっくりと語った。
「――私が見たのは、もう五年ほど前になる。幌馬車が七、八台。護衛の兵は、鎧の形が帝国のものだった。檻の中から、獣の唸り声とも人の声ともつかぬものが聞こえた」
「――帝国の……」
「――それ以上は、分からぬ。声をかけることもできなかった。すまぬな」
老人は、深く頭を下げた。
「――そんな、謝らなくていいんだぁ。教えてくれて、ありがとうなんだぁ」
ガロンは、大きな手で老人の手を取った。
その様子を、少し離れたところから眺めながら、ルークは考える。
(――帝国か。やっぱり、あの国が絡んでるのか)
獣人狩りの背後に、帝国の影がある。偶然ではないだろう。
「――ルーク」
戻ってきたガロンが、真っ直ぐにこちらを見た。
「――おで、やっぱり帝国に行きたいんだぁ。兄貴を見つけるまで、絶対に諦めねえ」
「――分かってる。満月花を採ったら、次は帝国方面へ向かおう」
「――ありがとうなんだぁ」
それ以上の言葉は、要らなかった。
夕方、集落の広場では、小さな食事の準備が始まっていた。
「――おーい、帰ったぞ!」
弓を担いだネイルが、巡回から戻ってきた。泥だらけの顔で、屈託なく笑っている。
「――南はどうだった」
エルヴィンが問う。
「――足跡は、まだ増えてます。ただ、姿は見えません。向こうも、慎重に動いてるみたいです」
ネイルの口調が、少しだけ硬くなった。だが次の瞬間には、いつもの軽さに戻っている。
「――まあ、今夜は交代の連中に任せて、俺は飯だ飯。ほら、リーフェ、肉を寄越せ」
「――自分で取りなさいよ!」
「――つれないなあ。ルーク君も食べなよ。ガロン君は……もう食べてるな」
ガロンは、既に両手に骨付き肉を持っていた。口の周りがべたべたになっている。
「――うまいんだぁ、これ!」
「――だろ? 森の鹿は、脂が違うんだ」
焚き火を囲んで、笑い声が広がる。エルフの若者たちが、物珍しそうに、ガロンの大楯を触りに来た。リーフェが「勝手に触るな」と叱りつけ、結局全員で笑った。
ルークは、その輪の端に座って、静かに火を見つめていた。
(――こういうの、悪くないな)
ストリートチルドレンの仲間たちと囲んだ火を、ふと思い出す。あの頃とは顔ぶれも、場所も違う。それでも、気を許せる者たちが焚き火を囲んで笑っている、ただそれだけのことが、ひどく眩しかった。
「――ルーク君」
隣に腰を下ろしたネイルが、小声で言った。
「――リーフェのこと、これからもよろしく頼むよ」
「――え?」
「――あの子は、強がりでね。誰かに頼るのが下手なんだ。さっきも、師匠の背中ばかり見てただろ。……君みたいな、近い年頃の友達がいると、俺も安心できる」
からかうような笑みの奥に、本物の優しさがあった。
「――俺は、友達って柄でもないですが。努力します」
「――ははっ、それで十分だ」
ネイルは立ち上がり、ひらりと手を振った。
「――じゃあ、俺はもう一度、南の見回りに出る。明日の夜は満月だ。いい晩になるといいな」
「――気をつけて」
「――ああ。リーフェを頼んだぜ」
去っていく背中を、ルークは焚き火越しに見送った。軽やかな足取りが、夕闇に溶けていく。
その夜、小屋に戻ったルークは、布団の上で靴下を脱いだ。
黒い三本の指。変わらない。昨日も、一昨日も、同じだった。
(――お前は、本当に何も言わねえんだな)
頭の奥に、問いかける。返事はない。ただ、あの森の入口で感じた細い糸の引きだけが、今も胸の奥に残っていた。
窓の外には、ほぼ丸い月が昇っている。明日が、満月だ。
ルークは目を閉じた。静かな夜だった。
南の森の奥で、何かが蠢き始めているとも知らずに。




