長老の許し
翌朝、ルークはヴェーラに連れられて、長老の広間を訪れた。
ガロンは外で待たせてある。大きな体では、広間の床板が心配だった、というのは建前で、本当は、あまり聞かせたくない話だった。
「――世界樹の聖域の外れに、満月花を摘みに行きたい、と」
長老は、白銀の眉を僅かに寄せた。
「――昨日、近づくなと言ったばかりではなかったか、若い者よ」
「――承知しています。ですから、お願いに上がりました。聖域には入りません。外縁で花だけを摘んで、すぐに戻ります」
「――理由を聞こう」
ルークは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「――……体に、不調があります。薬師の方に診てもらい、満月花なら和らげられるかもしれない、と」
嘘ではない。ただ、全てでもない。
長老の澄んだ瞳が、じっとルークを見据える。見透かされているような感覚に、背中を汗が伝った。
「――私からも、口添えさせてもらうよ」
ヴェーラが、一歩前に出た。
「――この子の不調は本物だ。私が診た。放っておけば、悪くなる一方さ。花を一晩分摘むくらい、森にとっては何でもないだろう」
「――ヴェーラ、お前がそこまで言うか」
「――年寄りの勘だよ。この子は、悪さをする目をしていない」
長老はしばらく黙っていた。広間に、梢を渡る風の音だけが流れる。
「――エルヴィン」
傍らに控えていた男が、静かに顔を上げた。
「――どう見る」
「――腕前は未熟ですが、嘘をつく者の目ではありません。……何かを隠してはいるようですが、害意とは別のものでしょう」
淡々とした答えだった。ルークは思わず目を伏せる。やはり、あの琥珀色の瞳には、見抜かれている。
「――よかろう」
長老が、ゆっくりと頷いた。
「――条件が三つある。一つ、案内にリーフェをつけること。二つ、満月の夜、日が落ちてから夜明け前までの間に限ること。三つ、聖域の境の目印より内側へは、指一本たりとも入らぬこと」
「――ありがとうございます。必ず守ります」
「――それと、もう一つ」
長老の声が、少し低くなった。
「――南の外れで、人の足跡が見つかっている件だ。数は少なくとも二十。近頃の見張りの報告とも合致する。単なる旅人ではあるまい」
ルークの胸が、ざわりと波立った。
(――二十人以上……)
「――お前たちを疑っているわけではない。だが、時期が悪い。森が落ち着かぬ間は、聖域の周りも、決して安全ではないと心得よ」
「――分かりました」
ルークは、深く頭を下げた。
広間を出ると、階段の下でリーフェが腕を組んで待っていた。
「――聞いたわよ。あたしが案内役だって」
「――悪いな」
「――別にいいけど。師匠の命令だし」
口ではそう言うものの、表情は硬い。
「――南の見張り、増やすって聞いた。あたしも本当は、そっちに行きたかったのに」
「――それは、俺のせいか」
「――違うわよ。……ただ、あんたの護衛だって言われたら、断れないじゃない」
ぷい、と顔を背ける。その背後から、のんびりした声が飛んだ。
「――おーい、リーフェ。また文句言ってんのか」
弓を担いだ青年が、片手を挙げながら近づいてきた。短く刈った栗色の髪に、人懐こい笑み。リーフェよりも少し年上に見えるが、エルフの見た目は当てにならない。
「――ネイル! 文句なんて言ってない!」
「――顔に書いてあるぞ。ほら、今日から南の巡回、俺が代わりに行ってやるから。お前は客人の面倒を見てろ」
「――でも、南は危ないって」
「――だから行くんだろ。お前みたいな新米を連れていけるか」
けらけらと笑って、ネイルはルークに目を向けた。
「――君が、昨日師匠に打たれた客人か。見てたよ。あの避け方は、なかなか見応えがあった」
「――打たれたのに褒められても、複雑ですね」
「――ははっ、正直だな。気に入った」
ネイルは、ルークの肩を軽く叩いた。
「――リーフェ、素直じゃないけど、いい子なんだ。仲良くしてやってくれよ」
「――余計なこと言わないでっ!」
「――はいはい。じゃあな。帰ったら、満月花の話でも聞かせてくれ」
ひらひらと手を振って、ネイルは南の方角へ去っていく。その背中は、いつもと変わらず軽やかだった。
「――……いつもああなのよ。お調子者で、軽くて」
リーフェが、ぼそりと呟く。
「――でも、腕は確かだし、あたしに弓を教えてくれたのも、あの人なの」
「――いい先輩なんだな」
「――……うるさい」
耳の先が、また赤い。
その日の夕方、ルークは集落の外れの草原で、ガロンと並んで夕陽を眺めていた。
「――ルーク、体は大丈夫なのかぁ」
「――ああ。心配すんな」
「――おでは、ルークが無理してねえか、心配なんだぁ。ルークは、すぐ黙って一人で抱え込むから」
返す言葉に、詰まった。
「――……痛みはないんだ。本当に」
「――そうじゃなくて」
ガロンは、困ったように頭を掻いた。
「――おでは、ルークを信じてるんだぁ。でも、信じてるからこそ、言ってほしいこともあるんだなぁ」
夕陽が、森の稜線に沈んでいく。赤く染まった空を、鳥の群れが横切った。
「――……足のこと、悪かった。ちゃんと話すよ。もう少しだけ、待ってくれ」
「――うん。待つんだぁ」
のんびりとした声だった。それが、ありがたかった。
ルークは、足元の黒い指を靴の中で動かしながら、森の奥を見つめる。
明後日の満月。そこで、何かが変わる。そんな予感がしていた。
それが良い方向なのか悪い方向なのか、まだ分からないまま。
日が落ちて、集落に灯りがともる。南の方角からは、見張りたちが交代する笛の音が、遠く、細く響いていた。




