薬師の目
翌朝。
筋肉痛はだいぶ引いていたが、右足の甲だけが、妙に重く感じられた。
「――何してるの。置いてくわよ」
小屋の戸口から、リーフェが急かす。ルークは靴紐を結び直し、ガロンと並んで外へ出た。
薬師の住まいは、集落の外れにあった。
小さな木造の家を囲むように、色とりどりの草花が植えられている。陽の光を浴びた葉が揺れ、青臭さと甘い香りの混ざった匂いが漂ってきた。
「――うわぁ、いい匂いなんだぁ」
ガロンが鼻をひくひくさせる。
「――師匠が言ってた薬師って、ここか」
「――そう。ヴェーラ婆。口は悪いけど、腕は確かよ」
リーフェが戸を叩くより早く、中から声が飛んできた。
「――誰が婆だい、このおちびが! 入りな!」
扉を開けると、薬草の束が吊るされた薄暗い部屋の奥で、一人の女が薬研を挽いていた。
見た目は二十代半ばといったところか。長い栗色の髪を無造作に束ね、袖をまくり上げた腕は、薬の汁で斑に染まっている。切れ長の目が、じろりとこちらを睨んだ。
「――あんたたちが、北の巣を潰したっていう客人かい。うちの見張りを助けてくれて、礼を言うよ」
口調は婆そのものだったが、声にははっきりとした感謝がこもっていた。
「――もう一人の見張りは、どうなりましたか」
「――命は拾ったよ。あと一刻遅けりゃ危なかったがね」
ヴェーラは薬研を置き、ルークとガロンの全身をじろじろと見回した。
「――で、あんたたち、薬草が欲しいんだって? 毒消しやら傷薬やら」
「――はい。回復役がいないので」
「――ふん。それなら、ついでに簡単な調合の仕方を覚えていきな。道中、手に入る草で作れるようにね」
断る理由はなかった。ルークは素直に頷いた。
調合の手ほどきは、思いのほか実践的だった。
毒消しの基本は、苦味の強い黒茎草と、蜜蝋を混ぜて練ること。傷薬は、血止めの葉を揉んで汁を出し、軟膏にすること。どれも森で採れる草ばかりで、大がかりな道具は要らない。
「――ほら、そこの熊。草の匂いは嗅ぎ分けられるかい」
「――うーん……これは、苦い匂いなんだぁ。こっちは、甘い匂い」
「――そうそう。で、そっちは?」
「――これは……土みたいな匂いがするんだぁ。毒の草かもしれねえ」
ガロンの鼻は、ヴェーラを唸らせた。
「――驚いた。熊の鼻は、エルフの目より役に立つこともあるんだね」
「――えへへ。そうなのかぁ」
照れ笑いする巨体の横で、ルークは慣れない手つきで乳鉢を回していた。
(――前世じゃ、薬局のお世話になる側だったからな)
不器用ながらも、手順を覚えていく。リーフェはそれを横目で見ながら、時折、口を挟んだ。
「――そうじゃないってば。もっと力を抜いて」
「――こうか」
「――違う。……貸して」
乱暴にルークの手から乳鉢を取り上げ、自分で挽いてみせる。手際の良さは、さすがは森の民だった。
「――ほら、こうやるの。分かった?」
「――ああ。助かる」
「――……別に」
そっぽを向いた耳が、また赤くなる。
昼を過ぎた頃、ヴェーラが急に手を止めた。
「――ところで、坊や。あんた、右足はどうしたんだい」
ルークの背筋が、ひやりとした。
「――右足?」
「――歩き方がおかしいよ。庇ってるわけじゃない。ただ、地面を踏む感覚が、他の足と違う。長年、人の体を診てきた目は、誤魔化せないよ」
長い沈黙が落ちた。リーフェもガロンも、不思議そうにルークを見ている。
(――やっぱ、見る奴が見れば分かるのか)
観念して、ルークは靴を脱いだ。
右足の小指、薬指、中指。三本の指が、墨を流したように黒く染まっている。
「――……!」
息を呑んだのは、リーフェだった。
「――それ、いつから……?」
「――ちょっとな。昔の怪我の名残みたいなもんだ」
嘘だった。ヴェーラもそれを見抜いているのだろう、薄く目を細めて、黙ったまま膝をついた。
骨ばった指が、黒く染まった足の指に触れる。しばらくの間、無言で診ていた。
「――……病じゃないね」
やがて、低く呟く。
「――腐っているわけでも、毒に侵されているわけでもない。肉の内側から、別のものに置き換わっていく感じだ。私も長く生きてきたが、こんなのは見たことがない」
「――治せますか」
「――無理だね。私の知る薬では、元には戻せない」
はっきりとした答えだった。覚悟はしていたはずなのに、胸の奥が冷えた。
「――ただ」
ヴェーラは続けた。
「――進みを遅らせるくらいなら、できるかもしれないよ」
顔を上げたルークに、彼女は静かに頷いた。
「――満月の夜にだけ咲く花がある。満月花といってね。咲くのはほんの数時間で、数も多くは採れない。滋養が強くて、体の変調を和らげる効能がある。治しはしないが、悪化の速さを鈍らせるくらいなら、期待できる」
「――満月は、いつですか」
「――三日後だよ」
三日。思ったよりも近い。
「――どこに咲くんですか」
「――それが厄介でね」
ヴェーラは眉を寄せた。
「――世界樹の聖域の、すぐ外れさ。根の力を吸って咲く花だからね。長老の許しがなければ、近づけない。あんたが頼みに行きな。私も口添えはしてやるよ」
「――ありがとうございます」
ルークは、深く頭を下げた。靴を履き直しながら、小さく息を吐く。
(――遅らせるだけ、か)
それでも、何もしないよりは、遥かにましだった。
「――ルーク」
ガロンが、心配そうに覗き込んでくる。
「――足、痛いのかぁ」
「――いや。痛みはねえよ。ただ、色が変わっただけだ」
笑ってみせたが、うまく笑えているかは、自信がなかった。
帰り際、ヴェーラが戸口まで見送りに出てきた。
「――それと、リーフェ。師匠に伝えておきな」
「――なに?」
「――ここ数日、森の南の外れで、人の足跡が見つかってるそうじゃないか。数は少なくない。見張りを増やしたほうがいい、ってね」
リーフェの表情が、わずかに引き締まった。
「――……分かった。伝えとく」
「――気をつけな。森が、妙にざわついてるよ」
ヴェーラの目は、遠くの森の奥を見ていた。
ルークもつられて、視線を向ける。見慣れたはずの緑の闇が、どこか、今日はいつもより暗く感じられた。




