迷いの森
歩き始めて、小一時間が経った。
「――……ここ、さっきも通らなかったか?」
先頭を行くリーフェの背中に、ルークは声をかけた。
目の前には、幹が二股に割れた大木が立っている。根元には、特徴的な紫色の茸が群生していた。見覚えがある。いや、三度目だ。
「――気のせいでしょ。似た木が多いだけ」
リーフェは振り返らずに答えた。だが、その歩調が、僅かに速くなっているのが分かる。
「――ガロン、どう思う」
「――うーん、おでも、同じ匂いがするんだぁ。さっきの茸の匂いだぁ」
ガロンが鼻をひくひくさせながら、首を傾げた。
リーフェの足が、ぴたりと止まる。
「――……おかしい」
小さな声だった。
「――いつもなら、この辺で道標の木が開くはずなのに。何も、起きない」
周囲を見回す横顔に、焦りの色が浮かんでいた。弓を握る手に、力がこもっている。
「――あたしが、間違えたはずない。師匠と何度も歩いた道なんだから」
「――師匠と、か」
ルークは、その言葉を拾った。
「――一人で、誰かを案内するのは、初めてか」
「――……っ!」
図星だったらしい。リーフェは唇を噛み、ぷいと顔を背ける。
「――だ、だから何よ。ちゃんとできるもん」
強がる声の端が、微かに震えていた。
(――見張りの守り手とはいえ、まだ新米なんだな)
からかうのは簡単だ。だが、ここで彼女を追い詰めても、何の得にもならない。ルークは息を吐き、周囲に意識を向けた。
木々の配置、足元の苔の色、梢から漏れる光の角度。そして、鳥の声。
(――鳥の声が、同じ間隔で繰り返されてる)
数十歩歩くたびに、同じ鳴き声が、同じ位置から聞こえてくる。偶然にしては、整いすぎていた。
「――リーフェ。この森の結界は、方向を狂わせる類のものか」
「――そう。同じ場所を、ぐるぐる回らされるの。正しい道標を辿らないと、永遠に出られない」
「――なら、道標が見つからない時は?」
「――師匠は、風の流れを読むって言ってた。でも、あたしには、まだ……」
言葉が、途切れた。
「――風、か」
ルークは、頰に当たる空気の動きに集中した。ほとんど感じられない。だが、鼻の利くガロンなら。
「――ガロン。この中で、一番違う匂いはどこからする」
「――ううん……」
ガロンは目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込んだ。しばらく鼻をひくつかせた後、巨体をのそりと右に向ける。
「――あっちだぁ。煙の匂いと、焼いた木の実の匂いがするんだぁ」
「――煙?」
リーフェが目を見開いた。
「――そんなはず……あたしには、何も」
「――おでの鼻は、ちょっとだけ自慢なんだぁ」
ガロンが胸を張る。その大楯が、陽気に揺れた。
「――行ってみよう」
ルークが促すと、リーフェは唇を引き結んだまま、ガロンの示した方向へ足を向けた。
十歩、二十歩。やがて、あの紫の茸の群生が、背後に遠ざかっていく。
そして、五十歩ほど進んだ時だった。
目の前の空気が、水面のように揺らいだ。巨木の幹がゆっくりと左右に割れ、その奥に、細い小道が現れる。
「――開いた……」
リーフェが、茫然とつぶやいた。
「――道標が、見えた」
「――ガロンのお手柄だな」
「――えへへ、そうかなぁ」
照れて頭を掻く巨体を前に、リーフェは複雑な表情で立ち尽くしていた。やがて、小さく息を吐いて、ぼそりと言う。
「――……今回だけは、助かったわ」
「――素直じゃねえな」
「――うるさいっ!」
拳を握って、ルークの背中を軽く叩く。思ったよりも力がない。それが、妙に可笑しかった。
小道を抜けた先に、集落が広がっていた。
巨大な樹の幹に沿って、木造の家々が連なっている。枝と枝の間には吊り橋が渡され、淡い光を放つ灯りが、あちこちで揺れていた。行き交う人々の耳は、どれも長く尖っている。
誰もが、驚くほど整った顔立ちをしていた。男も女も、年齢が読めないほど若々しく、洗練されている。
(――本当に、美男美女ばっかりだな)
ガロンは完全に口を開けたまま、周囲を見渡していた。
視線が、一斉に集まる。好奇と警戒が混じった眼差しだった。人族と熊族が、この里に足を踏み入れることなど、滅多にないのだろう。
集落の入口には、一人の男が立っていた。
長い髪を後ろで束ねた、細身のエルフ。見た目は、三十代前半といったところか。腰に差した長剣は、使い込まれて静かな光を放っている。
表情は、まるで凪いだ湖面のように穏やかだった。
「――師匠」
リーフェの声が、僅かに強張る。
「――遅かったな、リーフェ」
男が、静かに口を開いた。感情の起伏を感じさせない、落ち着いた声だった。
「――結界が、閉じていたろう」
「――……っ、はい。でも、この人たちが……」
「――見ていた。悪くない判断だ」
男の視線が、ガロンからルークへと移る。琥珀色の瞳が、すっと細められた。
(――この目は……)
ルークは、思わず背筋を伸ばしていた。向けられているのは、敵意ではない。ただ、何かを見極めるような、静かな視線。
全身を、骨の髄まで見透かされているような気がした。
「――客人か」
男は、それだけ言うと、軽く頭を下げた。
「――エルヴィンだ。長老が、お待ちだ」
その響きには、それ以上の問いを許さない、静かな圧があった。
ルークは懐の書状に触れながら、ゆっくりと頷いた。




