東へ
地図は位置関係を確認してもらうためであって尺度は正確ではありません。
レオニスを発って、七日が過ぎた。
道の様子が少しずつ変わり始めていた。香辛料の匂いは薄れ、代わりに湿った土と青草の匂いが鼻をくすぐる。街道は次第に細くなり、両脇の木々は背丈を増していった。
「――エルフってのは、どんな連中なんだぁ?」
背中の大楯を揺らしながら、ガロンが何度目かの質問を口にした。出立の朝に新調した装備はまだ体に馴染みきっていないらしい。時折、肩のあたりをもぞもぞと動かしている。
「――お前、それ三回目だぞ」
「――だって、気になるんだぁ。おで、エルフなんて見たことねえからなぁ」
「――……なあ、ガロン」
「――何だぁ」
「――お前、大会の頃はもっと荒っぽい喋り方じゃなかったか。『負けねえぞ』とか言ってたろ。いつからそんなのんびりした感じになったんだ」
「――そうだったかなぁ」
ガロンは首を傾げた。
「――あの頃は、熊族の戦士は強く見せなきゃ駄目だって、気を張ってたんだぁ。兄貴みたいにならなきゃって」
「……」
「――今はもう、ルークの前では気を張らなくていいんだぁ。これが素なんだぁ」
ルークは返す言葉を失って頬を掻いた。
子供のように目を輝かせる巨体にルークは苦笑した。
「――耳が長くて、弓が得意で、森に住んでて、やたら顔が整ってる。……って話は聞くな」
「――ほぉ。ルークは物知りだなぁ」
「――旅の途中で、ちょっと耳に挟んだだけだ」
適当にごまかしながら、ルークは内心で肩をすくめた。前世で散々読み漁った物語の知識がそのまま通用するかどうかは分からない。ただあながち外れてもいないだろう、という妙な確信だけはあった。
(――人族を見下してる、ってのもお約束だけどな)
王の言葉を思い出す。エルフは古く、保守的な種族。容易く他種族に扉を開かない。懐の書状がずしりと重く感じられた。
その日の昼過ぎ、街道脇の茂みが、不意に揺れた。
「――ルーク、下がるんだぁ」
ガロンの声がいつもの間延びした調子から一転して低くなる。大楯を前に構え、巨体が道を塞いだ。
茂みから飛び出してきたのは、牙猪の群れだった。牛ほどもある体躯が三頭、涎を垂らしながら突っ込んでくる。
「――うおおっ!」
ガロンが踏ん張った。先頭の一頭が大楯に激突し、鈍い音が響く。足が地面を削ったが、巨体は一歩も引かなかった。
「――今だ、ルーク!」
「――分かってる!」
身体強化を全開にして、ルークは横に跳んだ。残る二頭がガロンの脇を抜けようと走る。その鼻先を掠めるように回り込み、腰の剣を抜き放って、急所に斬りつけた。レオニスで買った、ごく普通の実剣だ。
一頭が悲鳴を上げて転がる。もう一頭の突進は紙一重でかわした。地面を抉る牙を横目に再び距離を取る。
(――人目のある街道で闇属性は使えねえからな。剣を買っといて正解だった)
闇の魔法は人族には忌避される。余計な疑いを招かないためにも、表向きの武器は必要だった。
(――ただ、攻めはやっぱり軽いな。避けるのだけは、まだ得意なんだが)
一撃で仕留め切れなかった自分の攻撃にルークは小さく舌打ちした。素の技術が足りないことは、自覚している。
だが、その間にガロンが動いていた。受け止めた一頭を大楯で押し返し、体勢の崩れた頭部にメイスを振り下ろす。ごつん、と重い音。牙猪は白目を剥いて崩れ落ちた。
「――やったぞぉ!」
残りの二頭は仲間の最期を見て怯んだのか、茂みの奥へ逃げていった。
「――……いい動きだったな、ガロン」
「――えへへ。盾があると、全然違うんだぁ」
嬉しそうに笑う相棒にルークは頷いた。素手だけだった大会の頃と比べれば、守りの安定感は段違いだった。
(――こいつがいるなら、前衛は任せられるな)
旅を続ける上でこれほど心強いことはなかった。
夜。焚き火を挟んで、ガロンは先に寝息を立て始めた。
ルークは火の番をしながら、ふと靴を脱いだ。薄暗い火明かりの下で右足を眺める。
小指、薬指、そして中指。三本の指が墨を流したように黒く染まっている。擦っても落ちない。大祭の後に気づいてから、色が薄くなる気配はなかった。
(――分かっちゃいたが、増える一方だな)
戻らないと、あの獣は言った。力を使うたびに、器に近づくのだと。
足の甲に触れる。感覚はまだ残っている。指先を動かせば、きちんと動く。変わったのは色だけで、今のところ、他に異常はない。
(――エルフの薬草に期待しちまうのも無理はねえよな)
遅らせる程度でも構わない。そう自分に言い聞かせながら、ルークは靴を履き直した。
焚き火の爆ぜる音の向こうで、夜の森が静かに息づいている。まだ遠い、けれど確かに近づいている目的地を思いながら、ルークは交代の時間まで、ぼんやりと火を見つめていた。
さらに三日。
視界が突然、開けた。
街道の先に見たこともないほど巨大な森が広がっていた。木々の一本一本がこれまで見てきたものとは桁違いの太さと高さを誇っている。梢は空を覆うように重なり合い、昼間だというのに、森の奥は薄暗い闇に沈んでいた。
「――すげぇ……」
ガロンがぽかんと口を開けた。ルークも思わず足を止める。
(――これが、エルフの森か)
言葉にできない威圧感が肌に触れた。どこか神聖で近寄りがたい空気。人が踏み入ることを、拒むかのようだ。
一歩、森の入口へ踏み出そうとした、その時だった。
ヒュッ、と風を切る音。
ルークの足元に一本の矢が突き刺さった。
「――動かないで」
頭上から、凛とした声が降ってくる。
見上げると、太い枝の上に一人の少女が弓を構えて立っていた。
淡い緑がかった銀色の髪。翠色の瞳。尖った長い耳。年の頃は十五、六に見える。つり気味の目がはっきりとこちらを睨んでいた。
「――それ以上、森に近づかないでよね。ここから先は、あんたたちみたいな人が入っていい場所じゃないんだから」
弓の弦がぎりりと鳴る。
ルークは両手を挙げながら、ゆっくりと息を吐いた。
(――お約束、ってやつか)
懐の書状にそっと意識を向ける。ここからが、本当の始まりだった。




