東の拠点にて
山間の谷に、古い砦があった。
かつては国境を守る要衝だったらしいが、今は誰も寄りつかない廃墟だ。崩れかけた外壁の内側だけが、不自然なほど綺麗に手入れされている。ここがクラウスの、東の拠点だった。
レオニスを発ってから、十数日。埃の積もった一室に机と寝台を運び込み、彼は早くも次の作業に取りかかっていた。
(――設備は最低限。だが、始めるには十分だ)
館で失ったものの大半は、この拠点に備えていた予備で補える。いつかこうなることを見越して、あ らかじめ用意しておいた場所だった。
扉が叩かれたのは、手帳に最後の一行を書き終えた時だった。
「――クラウス様。帝都より、返答が届きました」
入ってきたのは、無表情な部隊長だった。差し出された封書を受け取り、クラウスは封蝋を割る。
文面は短かった。要求した人員と、素体の提供を認める旨。それだけだ。レオニスの館を失った件については、一言も触れられていない。
(――必要なものさえ届くのなら、それで構わない)
紙を畳み、懐にしまう。
「――素体は、到着しているのか」
「――はい。広間に」
案内された広間の中央に、一人の男が膝をついていた。
両手首には鎖。首筋には、奴隷の刻印。鍛え上げられた体躯と、傷の多い腕。かつては相応の装備を纏い、相応の場に立っていた人間なのだろう。
そして何より、その目が死んでいなかった。
「――帝国のゴールド級冒険者だった男です」
部隊長が淡々と告げる。
「――奴隷に落とされた後、こちらに回されました。理由は存じません。道中、何度も逃げようとしたため、刻印で動きは縛ってあります」
「――興味もないな」
クラウスは男の周りを、ゆっくりと歩いた。
「――てめえ……何をする気だ」
掠れた声が、床から這い上がってくる。憎悪と、わずかな怯えが混じっていた。
「――俺はゴールドだぞ。こんな扱いを、受けるいわれは……」
クラウスは答えなかった。代わりに、男の腕を取り、無造作に摘んだ。
「――ぐっ」
男が顔を歪める。続けて、懐から取り出した針を、前腕に浅く刺した。
「――やめろ、てめえ……!」
男が暴れようとした瞬間、首筋の刻印が淡く光った。全身から力が抜け、男は呻きながら床に突っ伏す。
「――痛覚は正常。反応速度も、問題ない」
クラウスは手帳を開き、ペンを走らせた。男の憎悪にも、苦悶にも、何の関心もないといった風に。
(――処置の前の基準値は、これで十分か)
脳に手を入れ、痛覚を抑え、潜在能力を引き出し、命令に絶対服従させる。レオニスでやっていた研究とは別のものだ。素体がゴールド級ともなれば、元の素質が違う。
傷つけば痛み、恐れれば足が竦む。それが人間だ。その枷を、一つずつ外していく。
「――そいつを手術室に運んでくれ」
「――承知しました」
部隊長が頷く。床に伏した男を手術室まで部下と共に運んでいく。
クラウスは地図を机に広げ、東の一点を指で叩いた。森の奥に聳える、古い大樹。
「――世界樹の葉を手に入れる」
あらゆる傷と病を癒し、治癒の力そのものを桁違いに増幅できるとされる、秘薬の材料。拒絶反応を抑え、永遠の命へ近づく鍵になるかもしれないものだ。
「――森の住人は、保守的で閉鎖的だと聞く。話し合いに応じるとは思えん。力ずくで奪う。部隊は十分な人数を用意した」
窓の外では、西日が谷の稜線を赤く染めていた。
(――待っていろ)
誰に向けた言葉でもない。ただ、自分の中の渇望に、そう言い聞かせた。
私は、死なない。そのために必要なものは、すべて手に入れる。
冷たい炎を宿した瞳で、クラウスは手帳を静かに閉じた。




