まだ、終わらない
馬車に揺られながら、エルンスト・クラウスは静かに窓の外を眺めていた。
背後に置き去りにしてきた館のことを、惜しいとは思わない。あそこにあった設備も、記録の写しも、既に十分な成果を得た後だった。惜しむべきは、時間だけだった。
(――また一から、か)
小さく息を吐きながら、懐に忍ばせた手帳を取り出す。走り書きの数式と、これまでの実験結果が、几帳面な字で綴られている。この手帳さえ無事なら、失ったものなど誤差の範囲だった。
窓の外を、レオニスの街の灯りが遠ざかっていく。あの雑多な国は、思いのほか実験材料の質が良かった。頑丈な肉体、旺盛な生命力――だが、材料に不自由しないというだけなら、他に代えがたい理由もない。
(――どこか、もっと静かな場所でやり直せばいい)
拘束された部下たちのことは、既に頭から追い出していた。所詮は駒に過ぎない。使えなくなった駒に、感傷を抱く理由はどこにもなかった。
頁をめくる。そこに記された結果は、成功と失敗が半々といったところだった。
この世界の医学は、あまりにも遅れている。前の世界で学んだ知識がなければ、ここまで辿り着くことすらできなかっただろう。血液型の判別も、解剖学も、清潔な手術も――この世界の誰もが、手探りですら始めていない領域だった。
血液型は、きちんと揃えた。骨も、太い血管も、神経も、自らの手で寸分違わず繋いだ。臓器の入れ替えも、この世界の誰にも真似できない精度でやってのけた。
それでも、数日もすると、必ず体が拒んだ。繋いだ部分が熱を持ち、腫れ、やがて壊死していく。血液型の一致など、拒絶反応の入口に過ぎなかった。
(――やはり、型を合わせるだけでは足りない)
光属性の治癒魔法で、抑え込むことはできる。だが、クラウスの魔力量は決して多くない。一人を数日保たせるのが精一杯で、大規模に、継続的に使える手段ではなかった。
敵は、拒絶反応だけではなかった。術後の感染もまた、数え切れない実験体の命を奪ってきた。
消毒と清潔な器具で、ある程度は防げる。だが、完全ではない。前の世界には、そのための薬があった。
(――青カビ、か)
パンや果物に生える、あのありふれたカビ。培養し、滲み出す成分を抽出するところまでは、既に辿り着いていた。確かに、一部の菌には効いた。
だが、そこまでだった。純度を上げる方法が分からない。安定して作る方法も分からない。毎回、効き目も量もばらつく。前の世界の知識があっても、何十年もかけて築かれた技術を、一人で再現できるはずもなかった。
(――知っていることと、作れることは違う。当たり前の話だ)
設備も、人手も、時間も足りない。結局、実用に耐える量を得られないまま、手帳の隅に失敗の記録だけが積み重なっていた。
拒絶反応を抑える何か。あるいは、治癒の力そのものを、桁違いに増幅できる何か。
脳裏に、東の森に住まう長命種の噂がよぎった。彼らが守る古い大樹の葉は、あらゆる傷と病を癒す秘薬になるのだという。
(――あれが手に入れば、すべてが変わる)
目的は、最初から一つだった。永遠の命。一度死を経験した人間にとって、それ以外に求めるものなど、もはや存在しなかった。
ただ、それは先の話だ。今はもう一つ、並行して進めている計画があった。
人は、脳の力のほんの一部しか使っていない。前の世界で何度も耳にした俗説だが、この世界の魔力と治癒魔法を組み合わせれば、あながち的外れではないかもしれない。
脳に手を入れ、眠っている潜在能力を引き出す。その間、脆い組織は光属性の治癒魔法で保護しながら、慎重に作業を進める。脳は、プリンのように繊細な器官だ。メスの一振りが狂えば、すべてが崩れる。
成功すれば、強化人間が生まれる。戦う力を持たない自分を守る、強力な護衛として。そして、決して命令に逆らわない、従順な兵士として。どちらも、クラウスにとっては不可欠だった。
(――私一人では、自分の身すら守れない)
その事実を、彼は誰よりも冷静に受け止めていた。
前の世界の同級生には、自分以上の才覚を持つ者が、いくらでもいた。自分が天才であることを疑ったことはないが、特別だと思ったこともない。だからこそ、足りないものを補うための努力を、一日たりとも怠らなかった。足りないものがあるなら、他人の力を借りればいい。それが、彼のやり方だった。
(――死んだ肉体を、いかに動かし続けるか。そして、いずれは――)
継ぎ接ぎではなく、一から命そのものを生み出す。死んだ材料の寄せ集めではなく、望む形を、望むままに作り上げる領域へ。
(――ホムンクルス、か)
まだ手の届かない、遥か先の目標だった。だが、いつか必ず、そこに辿り着く。この程度の後退で、揺らぐような渇望ではなかった。
馬車の中で、クラウスは静かに口の端を上げた。
(――私は、死なない。誰にも、何にも、邪魔はさせない)
己の中に燃え続ける、冷たい炎を確かめるように、クラウスはもう一度、手帳を握りしめた。
窓の外では、夜の闇が、どこまでも深く広がっていた。




