祭りの合間に
「――で、デートの誘いは、どうなったんだよ」
控室での祝勝ムードも落ち着いた頃、ルークはにやにやしながらロイに水を向けた。
「――そ、それが……」
ロイは真っ赤になりながら、懐から一枚の紙切れを取り出した。
「――大会の後、リゼさんの方から、これを」
覗き込むと待ち合わせの場所と時間だけが、素っ気ない字で書かれていた。
「――やるじゃねえか!」
ルークが背中を叩くとロイは照れくさそうに頭を掻いた。
「――あくまでお付き合いってわけじゃなくて。デートに誘われた、ってだけなんですけど」
「――十分すぎるだろ、それ」
最初の一歩としては上出来すぎるくらいだった。前世で見てきた、何百組もの「進展しないまま終わる関係」を思えば、これは確かな前進だった。
「――頑張れよ。俺にできることはもうないからな」
ここから先はロイ自身の力で歩んでいく番だった。ルークはそんな思いを込めて軽く肩を叩いた。
大祭はまだ終わりを迎えていなかった。表彰式を終えた後も街は数日にわたって賑わいを見せ続けるという。
ルークは束の間の休息とばかりに、祭りの空気を存分に味わうことにした。
屋台街を練り歩けば串焼きの香ばしい匂い、揚げ菓子の甘い香りが鼻をくすぐる。踊りの輪に混ざる子供たちの笑い声、酒に酔った大人たちの豪快な笑い声――活気はこれまで訪れたどの街にも劣らないものだった。
(――賑やかだよなぁ、ここ)
串焼きを頬張りながらルークはふと通りの様子を見渡した。
屋台は数え切れないほど並んでいる。だが、目を凝らしてみると、どの店も庶民的な品揃えばかりだった。派手な宝飾品を扱う店や、贅を尽くした調度品を並べる商会――そういった類の店構えは見当たらない。
(――香辛料の産地だって話だったよな、ここ)
以前、宿の女将から聞いた話を思い出す。この国は香辛料で名を馳せているはずだった。だが、それにしては大商人然とした羽振りの良さそうな人物をほとんど見かけない。
(――金持ちが、少ないのか)
考えを巡らせながらルークは屋台の店主に何気なく尋ねてみた。
「――ここらへんの商人って、あんまり羽振り良くないんですか? 香辛料、結構な稀少品なんですよね」
「――ああ、それか」
串を裏返しながら、店主が苦笑した。
「――作る側は、案外儲からねえのさ。香辛料を安く買い付けて、国の外で高く売るのは結局よその国の商人だ。俺たちが自分で運ぼうにも、あっちの取引じゃ獣人ってだけで足元を見られる。脳みそまで筋肉でできてると思われてんのか値は叩かれるわ、契約書の文面でごまかされるわでな」
「――組合みたいなのでまとめて交渉したりはしないんですか?」
「――組合? ああ、人族の国にゃあるらしいな。商人同士で金を出し合って、護衛を雇ったり、揉め事の仲裁をしてもらったりするやつだろ」
店主は肩をすくめた。
「――こっちは部族ごとに習慣も縄張りもばらばらだ。そんなもんをまとめようって奴は、まだ誰もいねえ。だから商人はみんな一人で荷を運んで、一人で値を呑むしかねえんだよ。護衛を雇う金もなけりゃ、野盗に狙われても、助けてくれる仕組みもねえ」
荷も命も、すべて自己責任。獣人の荷となれば、毛皮や牙、角といった素材目当てで狙う輩までいる、と店主は付け足した。
(――素材目当てで、襲われる……)
単なる世間話のつもりだったが、思いのほか重い響きを持って、耳に残った。
(――この国、思ってたより危うい均衡の上に立ってるのかもな)
賑やかな祭りの喧騒の裏に潜む、この国の脆さ。まだ漠然としたものでしかなかったが、その予感は確かにルークの胸の奥に、小さな棘のように残っていた。
その日の夕方、決勝の疲労を洗い流そうとルークは集落外れの川に足を浸していた。冷たい水が火照った体に心地よく染み渡る。
(――やっぱ変身の後は堪えるな)
全身に残る筋肉痛と、微かな倦怠感。何度経験しても、この代償の重さには慣れそうになかった。
ぼんやりと水面を眺めながら足を洗っていたルークはふと、自分の足元に視線を落とした。
(――ん?)
右足の中指が黒く変色していた。水で擦ってみても、その色は変わらない。他の指と見比べれば、その違いは一目瞭然だった。
(――積み重なってきてる、ってことか)
変身のたびに戻らない部分が増えていく。分かってはいたことだったが、こうして目の当たりにすると改めて実感が重くのしかかってくる。
(――まあ、靴履いてりゃバレねえし、今のところは)
努めて軽く考えようとしながらも、胸の奥には拭いきれない不安が微かに残っていた。
(――この先どこまで進むんだろうな、これ)
答えの出ない問いをルークは静かに川面へ落とした水音に紛れさせた。
しばらく物思いに耽った後、ルークは小さく息を吐くと、気を取り直すように立ち上がった。
(――考えたって仕方ねえか。今は、今できることをやるだけだ)
濡れた足を拭きながら、ルークは集落の方へと歩き出した。夕暮れの空の下、大祭の賑わいが、まだ遠くから聞こえてきていた。
その夜。宿の寝台に体を投げ出すと、ルークは泥のように眠りに落ちた。
気がつくと、見覚えのある灰色の大地に立っていた。空と地面の境目が曖昧な、色のない荒野。
(――また、ここか)
目の前に、あの獣が蹲っていた。狼の顔、グリフォンの翼、ゆらりと揺れる大蛇の尾。以前に見た時より輪郭がわずかに濃くなっている気がした。
『――今日の戦は、悪くなかった』
地の底から響くような声が、頭の中に直接流れ込んでくる。
「――見てたのかよ」
『お前の目を通して、な。あの熊の膂力は見事だった。よくぞ制した』
「上から目線だな、おい」
ルークは鼻を鳴らした。ただ、この獣に面と向かって褒められるのは、悪い気分ではなかった。それを認めるのが癪で、わざと話題を逸らす。
「そういやさ、いつまでも『お前』とか『あの獣』じゃ呼びにくいんだよ。名前くらいあんだろ」
獣は、しばし沈黙した。金色の瞳が、じっとルークを見据える。
『――マルコシアス』
「マルコ……長ぇ名前だな」
『縮めるな』
「マルコでよくね?」
『断る』
即答だった。取り付く島もない。ルークは肩をすくめつつも、その名を胸の内で繰り返した。
(――マルコシアス、か)
祠に封じられていた指の主。村で語り継がれてきた、大悪魔。その名が今、ようやく自分の中で輪郭を持った。
「で、聞きてえんだけどよ。この足の黒いの、いつ戻るんだ」
『――戻らぬ』
淡々とした答えだった。
『お前が我が力を使うたび、その分だけ、お前の身は我が器に近づく。それが、力を借りるということだ』
「……やっぱ、そういうことかよ」
予想はしていた。それでも、はっきり言葉にされると腹の底が冷えた。
『恨むなら恨め。だが、力を使わずにいられるほど、この世は甘くはあるまい』
「それ、前にも言われたな」
『事実だからだ』
悪びれもしない口調だった。ルークは舌打ちしたが、反論はできなかった。この力がなければ自分は何度も死んでいた。それもまた、否定しようのない事実だった。
「……借りは借りだ。一応、覚えとく」
『ふん。覚えておけ』
獣の輪郭が、灰色の霧の中に溶けていく。
『――マルコシアス。忘れるな』
最後にそれだけを残して、視界が白く弾けた。
目を覚ますと、窓の外は薄っすらと白んでいた。
(――マルコシアス)
天井を見つめたまま、ルークはその名を、もう一度だけ心の中で呟いた。
恐れでも、親しみでもない。ただ、とてつもなく厄介な相手と、長い付き合いになりそうだ――そんな、妙に落ち着いた予感だけが、胸の奥に残っていた。




