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参ったか

 小川の水面を覗き込むと、波紋が収まるにつれて、見慣れているようで、まだどこか他人行儀な顔が浮かび上がってきた。

丸みを帯びた目元や輪郭は、どことなく母エマに似ている。一方、頭の上で揺れる髪の色は赤茶色――間違いなく父エドガー譲りだった。

(――ルーク、ね。この顔にも、この名前にも、ようやく慣れてきたか)

五度目の収穫祭を終えたこの秋、一条将聖――いや、ルークは、すっかり自分の足で村を歩き回れる少年になっていた。

■

振り返れば、この五年はそれなりに忙しかった。

異世界に生まれたと分かって、最初にやったことは決まっている。

(ステータス、オープン)

何も起きなかった。鑑定も、マイステータスも、ステータスカモンも駄目だった。

(――なんもねえじゃん)

拍子抜けしたが、どこかほっともした。数値やスキル名で中身を覗かれないのは、むしろ性に合っている。

代わりに、目を閉じて意識を体の内側に向けると、腹の奥にぼんやりと温かい何かが淀んでいるのが分かった。形も量も分からない。ただ、確かにそこにある、という手応えだけがあった。

生後七日目の晩には、村の教会で命名式が開かれた。

「――ルーク。〜δεno〜ルーク」

(え〜っとルークって言ってんのかな)

神父の指先が額に触れた瞬間、胸の奥でチクリと何かが疼いた。神父の指も、ほんの一瞬だけ止まったように見えた。だが彼はすぐに表情を戻し、何事もなかったように祝福の言葉を続けた。

あれが何だったのか、ルークは今も知らない。

腹の奥の「何か」の正体が分かったのは、それから少し後のことだ。台所で洗い物をしていたエマが桶に指先を浸すと、水がまるで意思を持ったように皿の上を滑り、汚れを洗い流していった。

(――マジで、魔法のある世界かよ)

あの温かい何かは、魔力だ。そう確信してからは、寝かされている間じゅう、血の巡りをなぞるように体内で魔力を動かす練習を続けた。

そして生後四ヶ月のある日。巡らせた魔力でふらつく膝に力を込め、ルークは誰の支えもなく、自分の足で立ち上がった。

「――え?」

洗濯物を抱えて戻ってきたエマが、その場で固まった。

「あらあら、まあ……もう立てる◯◯になったの……?」

喜びに満ちた声の奥に、ほんの少しだけ戸惑いの色が滲んでいたのを、ルークは見逃さなかった。

(――さすがに、早すぎたか)

あの日から、ルークは一つだけ自分にルールを課している。

目立ちすぎるのは、良くない。普通の子供を演じること。

おかげで初めての「まま」は、わざとたどたどしく言う羽目になった。四十七年生きた男の口から出す言葉としては、この上なく間抜けだった。

■

村の教会では、週に何度か、神父が子供たちを集めて読み書きを教えていた。

異世界の文字は、前世の記憶とは何一つ結びつかない。ルークは他の子供たちに交じって、一画一画を地道に目で追っていく。

「この国はカレンディア王国という。都には人族だけでなく、獣人やエルフ、ドワーフも行き来しているそうだ。もっとも、ここメレンド村のような田舎じゃあ、滅多にお目にかかれんがな」

子供たちが「見てみたい」と口々にはしゃぐ中、ルークは内心で静かに感心していた。

(――やっぱ、いろんな種族がいる世界なんだな)

授業の合間、隣に座っていた小柄な少年が、おずおずと声をかけてきた。

「あ、あの……ぼく、フィン。よろしく、ね」

目が合うと、慌てたようにすぐ逸らす。気弱そうな、けれど根は素直そうな子供だった。

「俺はルークだ。よろしくな」

軽く返すと、フィンはほっとしたように小さく笑った。

■

事件は、その数日後に起きた。

村外れの空き地で、ルークは怒鳴り声を耳にした。駆けつけてみると、フィンが地面に尻もちをつき、その前に体格の良い少年が仁王立ちしていた。村長の息子、ブルーノだった。傍らには、細身の少年スニードがへらへらと控えている。

「おら、金貸せって言ってんだろ!」

「ご、ごめん……持って、ない、から……」

「うるせえ! 貧乏人のくせに口答えすんな!」

振り上げられた拳が、フィンに向かって落ちようとした、その時。

「――おい、やめとけよ。たかってるお前らが貧乏人だろ?」

ルークは、二人の間に体を割り込ませていた。

「あ? 誰だお前」

八歳のブルーノと、まだ五歳のルーク。身長も横幅も、明らかな差があった。

(――普通に考えりゃ、勝ち目はねえよな)

魔力を全身に巡らせ、身体能力の底上げをする。

(――大怪我しない様に手加減しないとな)

ブルーノの拳が唸りを上げて振り下ろされる。ルークは冷静に半歩下がり、紙一重で躱した。

「な――」

体勢を崩したブルーノの顔面に、ルークの拳が真っ直ぐ突き刺さる。

「がっ!?」

怯んだ隙を逃さず、低い姿勢から一気に踏み込んで胴に組み付く。そのまま体重を預けて押し倒し、馬乗りになった。

「て、てめえ……!」

「参ったか?」

ブルーノがなおも暴れようとするのを見て、ルークは軽く拳を握り直す。

「参ったかって、聞いてんだよ」

「わ、わかった! わかったから、やめろ!」

「フィンに謝れよ」

「……悪かったよ!」

渋々吐き捨てたのを確認して、ルークはゆっくりと体を離した。少し離れた場所では、スニードが青ざめた顔で立ち尽くしている。勝つのはブルーノだと、高を括っていたのだろう。

「あ、ありがとう……ルーク」

震える声で礼を言うフィンの手を取って、引っ張り上げてやる。

「気にすんな。ああいうやつにはガツンと言い返してやりゃいいんだよ」

「ぼく、そんな勇気ないよ……」

「まあ、そのうち慣れるって」

軽く笑ってみせながら、ルークは内心、ほんの少しだけ面映ゆい気分になっていた。

(――誰かのために本気になるのも、悪くねえな)

この日から、フィンはことあるごとにルークの傍にくっつくようになった。臆病で気弱な少年と、伝法な口を叩く年下の少年。奇妙な組み合わせのようで、それは村の中で、ごく自然な光景として馴染んでいくことになる。


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