男の分際
余命を告げられた日、一条将聖が思い出したのは医者の顔ではなく、口の中に広がった土の味だった。
小学二年の夏の日曜だった。
テレビの特撮ヒーローが決めポーズをとる頃には、将聖はもう庭へ飛び出していた。首には母のバスタオルを結んでマントにしている。縁側の洗濯物の間をすり抜けて、物干し竿の下で足を開いた。
「変身!」
右の拳を突き上げた時だった。
塀の向こうから近所のガキ大将の忠雄が覗いていた。
「なんだそれ。ダッセ」
「だっさくない。ヒーローだ」
「ヒーローごっこなら俺がヒーローな」
目の前が白くなった。気づけば将聖は仰向けに倒れていて、口の中に血と土の味が広がっていた。芝生の上に白いものが転がっている。自分の前歯だった。
体格が違った。ただそれだけの話だった。
拳骨を食らった瞬間に将聖は子供心に正確に理解した。
(――ああ。これは、無理な世界だ)
その日から日曜の朝のテレビを見なくなった。
■
その後の将聖は夢を諦めるのが上手くなった。
少年野球のグローブは中学に上がる頃に物置へしまった。自分より上手い奴がいくらでもいたからだ。バレー部の体育館では平凡な身長が高いブロックの上から叩き落とされた。継いだ家業を大きくしようと島中を回った三十代は、客の名簿が毎年薄くなっていくのを見ているだけで終わった。母が組んでくれた見合いの写真は、三枚目から引き出しにしまうのをやめた。数えるのが辛くなったからだ。
それでも将聖は次の目標を探した。
大きなことはもう望まない。ただ両親を見送って墓を守る。それだけでいい。
四十四歳の秋、下腹部の違和感で行った島の診療所から、紹介状一枚で本土の病院に送られた。大腸癌ステージ4。肝臓への転移。
医者の説明を聞きながら将聖は天井のシミを眺めていた。
(あー、そっか)
口の中で呟いた。何度目かも分からない、いつもの言葉だった。
■
四十七歳の冬。
薬の副作用で冷たい水に触れれば指が裂けるように痛んだ。髪は抜けて、鏡の中には知らない老人が映っている。腕には点滴の管が三本。窓の外では離島の乾いた風が防風林を揺らしていた。
父は一度も見舞いに来なかった。博打で作った借金の督促から逃げているのだと、母が言いにくそうに教えてくれた。
「将聖! 将聖!」
母の声が遠くで聞こえる。返事をする力はもうなかった。
(悪いな、母さん。墓、守れそうにないわ)
意識が途切れる直前に浮かんだのは、母の顔でも叶わなかった夢の数々でもなかった。
庭で拳を突き上げていた小さな自分だった。
(ヒーロー、か。柄でもないよな、俺には)
そして意識は闇に沈んだ。
■
まず気づいたのは眩しさだった。
瞼の裏が熱を持つほどの光。体中を締め上げる圧迫感。喉が勝手に動いて、情けないほど頼りない声が出た。
「おぎゃあ」
(え!? 四十七年生きた男が、人前で、こんなみっともない声で)
体がふわりと持ち上げられ、温かい腕に包まれた。ぼんやり映るのは金髪碧眼の女性の顔だった。
震える声が降ってきた。聞いたことのない響きの言葉だった。意味は一つも分からない。それでも泣きながら喜んでくれているのは、声の揺れだけで分かった。
もう一つ低く不器用な声が重なる。赤茶色の髪のがっちりした体格の男だった。
短い言葉だった。やはり意味は分からない。ただ、ごつごつした大きな手が壊れ物でも扱うようにそっと頭に触れた。声は震えていた。
言葉は分からなくても、「生まれてきてくれてありがとう」と言われたのだと、疑いようもなく伝わった。
たったそれだけで、胸の奥で固く結ばれていた何かがほどけた。
(勘弁してくれよ。産まれた早々、泣かせにかかってくるのか)
軽口で誤魔化そうにも、今の口は乳を吸うことしかできなかった。
あの言葉が出てこなかった。
四十七年、事あるごとに口にしてきた諦めの言葉が、不思議なほど浮かんでこない。代わりに胸の奥で、小さな何かがことりと動いた。
(……今度こそ、か)
その夜、まだ焦点の合わない目で見上げた天井には、シミ一つなかった。
――そして五年の月日が流れた。




