サイラス・オルグレイブ パート3
その日、サイラスは薬草を採りに、山へ入っていた。
イリスの体調が優れないわけではなかった。ただ、あの熱を出した夜以来、常備薬だけは切らさぬようにしておきたいという、些細な用心からだった。
(――今日は、日が暮れる前に戻れそうだな)
籠いっぱいの薬草を背負い、鼻歌交じりに山道を下りながら、サイラスはそんなことを考えていた。何の変哲もない、いつも通りの一日になるはずだった。
村が見えてくる頃、様子がおかしいことに気づいた。
いつもは静かな村の広場に、人だかりができている。遠目にも分かる、物々しい鎧姿の一団――帝国か、それとも聖国の討伐隊か。籠を担いだまま、サイラスは駆け出していた。
人垣を掻き分け、広場の中心が見えた瞬間、時が止まった。
縄を打たれ、地に膝をつかされたイリスがいた。
「――魔族が、この村に紛れ込んでいたとは」
鎧姿の隊長らしき男が、声高に言い放つ。
「善良な村人を欺き、暮らしていたという時点で万死に値する。見せしめとして、この場で処す」
「――やめろ!」
声にならない叫びが、喉から絞り出された。だが、人垣に阻まれ、体が前に進まない。
眼の奥が、燃えるように熱かった。指先が、チリチリと痺れるように痛む。まるで、自分の内側で何かが目を覚まそうとしているかのようだった。
「――やめろぉぉぉぉっ!!」
今度こそ、腹の底から絞り出した絶叫だった。だが、その声は、群衆のざわめきにかき消され、誰の耳にも届かない。
周りを取り囲む村人たちの顔が、目に入った。誰も彼も、遠巻きに、あるいは好奇の目で、処刑を見物している。止めようとする者は、一人もいない。
(――お前ら、なんでそこで、突っ立ってるだけなんだ)
密告した者が誰かは、まだ分からない。だが、それ以上に許せなかったのは、この場に居合わせながら、誰一人として声を上げない村人たちだった。
(――お前らだって、何度も顔を合わせて、笑い合ってきただろうが)
井戸端で交わした、他愛のない世間話。市で品物を分け合った、ただそれだけの付き合い。特別なことは、何もなかった。ただの隣人として、共に日々を過ごしてきただけだ。それだけの関係すら、この一片の疑心の前では、何の意味もなかったとでもいうのか。
(――なんで、お前らが生きてて、イリスが死ぬんだ)
道理も、理屈も、その瞬間のサイラスの頭からは、綺麗さっぱり消え失せていた。
イリスが、こちらを見た。
その目に浮かんでいたのは、恐怖でも、絶望でもなかった。ただ、こちらを案じるような、静かな眼差しだった。
サイラスが人垣を突き破るよりも早く、絞首の縄が高く掲げられ――そして、落とされた。
広場に、短い悲鳴が響いた。
サイラスの視界が、真っ白に染まった。
(――ああ)
膝から崩れ落ちながら、頭のどこか冷めた部分が、そんなことを思っていた。
(――ああ、これで、もう)
言葉にならない何かが、腹の底から込み上げてくる。悲しみでも、怒りでもない、もっと得体の知れない、黒々とした感情だった。
気づけば、サイラスは長年隠し続けてきた闇の魔力を、解き放っていた。
具現化した闇の刃が、隊長の首を刎ねる。悲鳴を上げる暇すら与えず、次々と兵士たちが斬り伏せられていく。誰一人として、目の前の痩身の男が、まさか闇属性の使い手だとは、想像すらしていなかっただろう。
鎧を纏った屈強な兵士たちが、次々と地に伏していく。返り血を浴びながらも、サイラスの手は止まらなかった。
最後の一人が倒れた時には、広場は静寂に包まれていた。
そこでようやく、我に返った。
(――誰が、通報した)
その考えが、頭を占めた瞬間、サイラスの中で、何かが完全に切れた。
誰が魔族の存在を密告したのか、分からない。だとすれば、答えは一つしかなかった。
(――全員だ)
村人の誰もが、疑わしい。ならば、一人残らず、消してしまえばいい。
その日、村から生きて逃れられた者は、一人もいなかった。
子供の泣き声も、老人の命乞いも、サイラスの耳には届かなかった。ただ機械的に、目に映るものを、一つ、また一つと闇の中に沈めていく。それだけの、長い夜だった。
すべてが終わった頃、辺りには、血の匂いだけが立ち込めていた。
サイラスは、イリスの亡骸のもとへと歩み寄った。まだ温もりの残るその体を、震える腕で抱き上げる。
(――すまない)
声にならない謝罪が、口の中で溶けていく。守れなかったことへの謝罪なのか、それとも、これから自分がしようとしていることへの謝罪なのか、サイラス自身にも分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりと分かっていることがあった。
(――お前を、失うわけにはいかない)
この世界のどんな理も、常識も、もはやどうでもよかった。妻を取り戻すためなら、何を犠牲にしても構わない。禁忌だろうと、外道だろうと、構わなかった。
サイラス・オルグレイブという男が、後戻りのできない一線を越えたのは、この夜のことだった。




