サイラス・オルグレイブ パート2
結婚を認められてから、事はとんとん拍子に進んだ。
貴族の家に、魔族の嫁を迎え入れる――そんな真似が、周囲に容易く受け入れられるはずもなかった。父や兄からは案の定、猛反対を受けた。それでもサイラスの意志は固く、最終的には男爵家の籍を抜け、爵位も継承権も、すべて手放すことを選んだ。
未練は、なかった。もとより、家督にも社交にも興味のない人生だった。惜しむものなど、初めから何もなかったのだ。
二人は国を離れ、ヴォルグラード帝国から遠く離れたルミエル聖国の、名もない小さな村に居を構えた。宗教国家という土地柄、魔族への風当たりが決して緩いわけではなかったが、辺境の農村には、そこまで詮索してくる者もいない。ひっそりと、目立たぬように暮らせば、それで十分だった。
「――サイラス、それ、私がやるから」
井戸から水を汲み上げようとしていたイリスの手から、桶を奪い取るようにして、サイラスがそれを持ち上げる。
「いや、俺がやる」
「腰、痛めるわよ。貴族育ちなんだから」
「もう貴族じゃない。それに――」
サイラスは、事もなげに桶を担ぎ上げながら、続けた。
「――お前が水仕事で手を荒らすのを見るくらいなら、俺が多少無理をする方が、よほどいい」
その物言いに、イリスは呆れたように、それでいて嬉しそうに肩を竦めた。
貴族の次男として、労働らしい労働をしたことのないサイラスにとって、農村の暮らしは何もかもが不慣れなことばかりだった。畑仕事も、薪割りも、最初は満足にできなかった。不器用な手つきで斧を振るい、案の定何度も的を外し、足に振り下ろしかけてイリスを青ざめさせたこともある。
それでも、サイラスは音を上げなかった。
研究以外のことに、これほど熱心に取り組んだことはなかった。魔法の実験であれば理論通りに事が運ぶ。だが目の前の生活は、理屈だけでは動かない。不器用なりに、一つ一つ体で覚えていくしかなかった。
「――今日は、うまくできたでしょう」
ようやく形になってきた薪の山を前に、サイラスがどこか得意げに言うと、イリスはくすくすと笑った。
「ええ、上手よ。最初の頃を思えば、大したものだわ」
「馬鹿にしてるのか」
「褒めてるのよ」
こんな他愛のないやり取りが、サイラスにとってはこの上ない幸福だった。
そんな暮らしの中、イリスが高熱を出して寝込んだ夜があった。
顔を真っ赤にして苦しそうに息をするイリスの額に、濡れた布を当てながら、サイラスの頭の中は、目まぐるしく回転していた。
(――解熱に効く薬草は、確かこの近辺なら……)
村に一軒だけある薬師の家は、とうに戸を閉めている。叩き起こしてもいいが、この時間ではどれほどの量が手に入るか分からない。それより、自分の足で探した方が早い。
サイラスはそう判断すると、灯りも持たずに夜の山へと駆け出した。
闇属性の魔力で足元を頼りに、獣道を掻き分けて進む。木の根に足を取られ、枝に頬を裂かれても、構わず先を急いだ。魔法を使えば一瞬で終わる作業だと分かっていながら、村の誰かに見咎められる危険は冒せない。もどかしさに歯を食いしばりながら、記憶にある薬草の群生地を、手探りで探し当てた。
夜明け前、泥だらけになって戻ったサイラスの腕には、両手に抱えきれないほどの薬草があった。
「――こんなに?」
差し出された量に、イリスは目を丸くした。必要な分の、優に十倍はありそうだった。
「念のためだ。足りないよりは、いい」
「……ばか」
呆れたように呟きながらも、イリスの声には、隠しきれない愛おしさが滲んでいた。
煎じた薬草のおかげか、熱は数日で引いた。床上げしたイリスに、サイラスは心底安堵した様子を見せながらも、しばらくの間、彼女から片時も目を離そうとしなかった。
「――大袈裟よ、サイラス。もう平気だから」
「いや。何かあってからでは、遅い」
その頑なさに、イリスは苦笑するしかなかった。だが、それが疎ましいとは、少しも思わなかった。
イリスが少しでも風邪を引こうものなら、サイラスは血相を変えて薬草を探しに山へ駆けた。イリスが疲れた顔を見せれば、水を汲むのも、食事の支度も、洗濯も、あらゆる家事を一人で背負い込もうとした。
「――サイラス、そんなに気を張らなくていいのよ。私、あなたが思うより丈夫だから」
「いや。お前に苦労はさせたくない」
真剣な顔でそう言い切るサイラスに、イリスは困ったように、それでいて満更でもなさそうに微笑む。
「昔から、そうなの?」
「――何がだ」
「一度決めたことに、とことん向き合うところ」
サイラスは、少し考えるように黙り込んだ。
「――さあな。少なくとも、お前に出会うまでは、何かにこれほど夢中になったことはなかった」
「大袈裟ね」
「大袈裟なものか。魔法の研究にも、こんな気持ちで打ち込んだことはない」
窓から差し込む夕陽が、二人の影を長く伸ばしていた。慎ましい家の中に、乾いた薪の匂いと、夕餉の湯気が満ちている。
貴族としての地位も、研究者としての名誉も捨てて手に入れたのは、こんな何気ない時間だった。だが、サイラスにとって、これ以上の富はどこにもなかった。
(――このまま、この暮らしがずっと続けばいい)
そう思う一方で、心のどこかに、微かな不安が影を落としていた。村の女たちが、井戸端でこちらを見ては、何事かひそひそと囁いている。イリスの耳が、人族のそれとは違うと、誰かが気づいているのかもしれない。
サイラスはそれに気づいていながら、あえて口に出さなかった。イリスもまた、気づいていないふりをしていた。
二人にとって、それは触れてはいけない、ただ一つの影だった。




