サイラス・オルグレイブ パート1
馬車の車輪が、何かに乗り上げるような感触があった。
次の瞬間には、視界が大きく傾いでいた。荷台が軋み、御者の悲鳴じみた叫び声が聞こえたかと思うと、サイラスの体は投げ出され、固い地面に打ちつけられていた。
(――ああ、これは)
やけに冷静な頭の片隅で、そんなことを思う。痛みよりも先に、意識が急速に遠のいていくのが分かった。
サイラス・オルグレイブは、ヴォルグラード帝国に籍を置く男爵家の次男だった。家督を継ぐ立場ではないという気楽さもあり、幼い頃から魔法の研究に没頭してきた。闇属性という、貴族社会では歓迎されざる属性を持って生まれたことも、幸か不幸か、その傾倒に拍車をかけていた。幸い、水属性も併せ持っていたため、表向きはそちらの水属性魔法使いとして振る舞い、闇属性の存在は誰にも明かしていない。
ヴォルグラード帝国は、大陸の北方に版図を広げる軍事大国だった。厳格な規律と強大な軍事力を誇り、国境の先には魔族の国が接している。ルークが生まれ育つカレンディア王国からすれば、遥か北東の彼方に位置する国だった。
そんな彼が、なぜ辺境の街道を一人で馬車に揺られていたのか――理由は単純で、辺境に伝わる希少な魔道具の噂を聞きつけ、居ても立ってもいられず視察に出かけた帰り道だった。
そうして、事故に遭った。
意識が完全に途切れる直前、サイラスの目に映ったのは、覗き込んでくる誰かの影だった。逆光でよく見えないその輪郭が、ひどく心配そうにこちらを見ている――そんな気がした。
目を覚ますと、見知らぬ天井があった。
木の梁がむき出しになった、質素な作りの部屋。体を起こそうとすると、脇腹に鈍い痛みが走った。
「――動いちゃダメ。まだ、肋骨が本調子じゃないんだから」
声のした方を見ると、椅子に腰掛けた一人の娘が、こちらを覗き込んでいた。
特別に着飾っているわけでもない、飾り気のない普段着。それなのに、サイラスは思わず息を呑んだ。
貴族として、着飾った令嬢たちを見慣れてきたはずだった。だが、目の前の娘の持つ美しさは、それらとはまるで種類が違って見えた。作り込まれたものではない、ただそこにあるだけの、自然な佇まい。
(――なんだ、これは)
もとより、女性という存在そのものに、さほど関心を抱いたことのない人生だった。研究のことで頭がいっぱいで、それどころではなかったというのが正直なところだ。
それが今、目の前の娘から目を逸らせずにいる。
「……ここは?」
かろうじて絞り出した声に、娘は小さく微笑んだ。
「私たちの村よ。馬車が横転してるあなたを見つけて、担ぎ込んだの。私はイリス。あなたの名前は?」
「――サイラス、です」
名乗りながら、サイラスはようやく気づいた。娘の耳が、人間のものよりわずかに長く尖っている。魔族――この辺境の村が、魔族の暮らす集落であることを。
だが、そんなことは些細な事実でしかなかった。今のサイラスの頭を占めていたのは、ただ一つ。
(――この人のことを、もっと知りたい)
貴族の次男として、政略の道具として結婚を意識したことはあっても、こんな感情を抱いたのは、生まれて初めてのことだった。
怪我の療養という名目で、サイラスは村に長く逗留することになった。イリスは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれ、その献身の中に見える性格の良さに、サイラスはますます惹かれていった。着飾らずとも美しい容姿と、飾らない人柄。研究のことしか頭になかった自分の世界に、まるで違う色彩が差し込んでくるような感覚だった。
ある日、サイラスは意を決して、イリスの父親のもとを訪ねた。
「――娘さんと、結婚を前提にお付き合いさせていただきたい」
イリスの父は、村でも一際体格の良い、屈強な男だった。サイラスよりも頭一つ大きく、肩幅も倍近くある。娘の求婚者を、値踏みするような目でじろりと見据えた。
「――貴族の坊ちゃんが、うちの娘にねぇ」
どこか面白がるような、それでいて試すような口調だった。
「口先だけの覚悟なら、間に合ってる。強さを見せてみろ」
言うが早いか、父親はサイラスに組みついてきた。屈強な体躯が、あっという間にサイラスを地面に叩きつける。受け身も取れないまま、したたかに背中を打ちつけ、息が詰まった。
サイラスは、魔法を使えば互角以上に渡り合える自信があった。だが、あえてそれをしなかった。目の前の男が求めているのは、魔力の強さではなく、正々堂々と向き合う覚悟なのだと、直感的に理解していたからだ。
「――もう一回、お願いします」
立ち上がり、口の中に滲む血の味を飲み込みながら、サイラスはそう告げた。
その日は、それで終わった。翌日も、また翌日も、サイラスは同じように叩きのめされ、同じように立ち上がって「また明日」を繰り返した。関節を極められ、悲鳴を上げそうになったことも一度や二度ではない。それでも、その度に歯を食いしばって立ち上がった。
十日目を過ぎた頃、さすがに父親の方が、怪訝そうな顔を見せるようになった。
「――おい。お前、それでも貴族の家の人間だろう。こんな真似までして、何になる」
肩で息をしながら見下ろしてくる父親に、サイラスは膝をついたまま、顔を上げた。血の混じった唾を吐き、乱れた息のまま、絞り出すように言葉を紡いだ。
「――俺は今まで、女性に心を動かされたことなど、一度もありませんでした」
「あぁ?」
「研究のことしか、頭になかった。誰と結婚しようが、政略の駒として扱われるだけだと、そう思っていました。……それが」
サイラスは、力の入らない拳を、地面に強く押し付けた。
「イリスさんに、初めて恋をしました。この人しかいない、と。この先、こんな気持ちになれる相手には、二度と出会えない――そう、確信したんです」
「だから、なんだ」
「だから、必死なんです! これを逃したら、俺はきっと、一生……ッ」
言葉に詰まり、それでもサイラスは続けた。
「一生、後悔します。どれだけ殴られようと、どれだけ惨めな姿を晒そうと、俺はここで、諦めるわけにはいかないんです。……お願いします。もう一回」
しばらくの沈黙があった。父親は、値踏みするようにサイラスを見下ろしたまま、何も言わない。
やがて、小さく息を吐くと、また構えを取った。
「――口だけかどうか、まだ分からんぞ」
その声には、先程までとは違う、どこか試すような響きが混じっていた。サイラスは震える足に力を込め、もう一度立ち上がった。
そうして、幾日が過ぎた頃。
「――もういい」
いつものように組みつこうとした父親が、不意に手を止めた。
「お前のそれは、口先だけの覚悟じゃねえ。認めてやるよ」
ぶっきらぼうな物言いの奥に、確かな温かさが滲んでいた。
サイラスは、土埃と血にまみれた顔のまま、深く頭を下げた。
「――ありがとう、ございます」
顔を上げると、少し離れたところで、こちらの様子を窺っていたイリスと目が合った。彼女は、堪えきれないというように、くしゃりと笑った。
その笑顔を見て、サイラスは思った。
(――この人のためなら、これから先、何だってできる)
まだこの時のサイラスは、その言葉の意味の重さを、知る由もなかった。




