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匿名の密告者

 懐に忍ばせた帳簿の重みを感じながら、ルークは物陰を伝い、詰め所へと向かっていた。

(――さて、これをどう届けたもんかな)

 証拠は手に入れた。だが、それをどう使うかは、また別の問題だった。

 役人が街の金を懐に入れ、その一部を裏の組織に上納している。ということは、その仕組みを黙認している――あるいは、一枚噛んでいる人間が、他にもいるかもしれない。兵士だって、例外じゃない。

(――詰め所の連中まで買収されてたら、目も当てられねえな)

 証拠を渡した相手がグルだったら、それこそ握り潰されて終わりだ。下手をすれば、届けた人間を探されることにもなりかねない。

 しばらく考えたルークは、小さく息を吐いた。

(――まあ、考えてても仕方ねえか。全員が全員、腐ってるとも限らねえし)

 組織全体を疑い出せば、きりがない。それに、これ以上一人で抱え込むには、荷が重すぎる話だった。今の自分にできるのは、誰の目にも留まる形で、事を明るみに出すことだけだ。

(――一番上まで話が通るかは賭けだけど、それしかねえよな)

 ルークは詰め所の裏手に回り込むと、気配を殺したまま、建物の様子を窺った。窓の隙間から漏れる明かりの中に、机に向かう兵士の姿がぼんやりと見える。

 懐から帳簿を取り出し、その表紙に、あらかじめ用意しておいた紙切れを挟み込む。たどたどしい字で、要点だけを短く書き殴った――孤児院の支援金が着服されていること、役所の男の顔立ちと、裏路地での金の受け渡しの様子。名前までは分からずとも、この筆致から足がつくことはないはずだった。

(――さて、と)

 人目のない裏口の前に、帳簿をそっと置く。念のため、雨除けのつもりで、近くに転がっていた布切れを軽くかぶせた。

 コン、コン、と扉を叩く。

 足音が返ってくるのを確認するや否や、ルークはすでに影の中へと身を滑り込ませていた。

 扉が開き、中から兵士が顔を出す。訝しげにあたりを見回した後、足元の帳簿に気づいたようだった。

「――なんだ、これは……」

 拾い上げた帳簿を開き、挟まれた紙切れに目を通す。その表情が、みるみるうちに険しくなっていくのを、ルークは物陰からじっと見守った。

「――おい、隊長! ちょっとこれ見てください!」

 叫びながら、兵士が慌ただしく建物の奥へと駆け込んでいく。

(――さて、どう出るかね)

 息を潜めたまま、ルークはしばらくその場に留まった。祈るような気持ちで待つこと、しばらく。

 やがて、詰め所の中から数人の兵士が飛び出してきた。先ほどの男に、恰幅のいい壮年の男――おそらくは隊長だろう――が続く。

 隊長は帳簿と紙切れを交互に見比べながら、低く唸った。

「――役所の人間が、孤児院の支援金に手をつけていた、か。裏帳簿まで揃ってるとなりゃ、言い逃れはできんな」

「はっ! すぐに人をやって、身柄を押さえます!」

「ああ。誰が寄越したかは知らんが……これだけの証拠だ、動かん理由もあるまい。夜が明け次第、役所にも話を通す」

 隊長の指示に、兵士たちが即座に散っていく。誰一人として、様子を窺うでも、揉み消そうとするでもない。ただ真っ直ぐに、任務へと向かっていくその背中を見て、ルークはようやく詰めていた息を吐き出した。

(――良かった……ちゃんと、動いてくれたな)

 心のどこかで、握り潰される可能性を捨てきれずにいた自分に、今更ながら気づく。だが、目の前の光景は、その懸念を裏切ってくれた。

(――全員が全員、腐ってるわけじゃねえんだな)

 小さな安堵が、じんわりと胸に広がっていく。同時に、これでようやく一区切りついたのだという、静かな達成感もあった。

 夜の街に散っていく兵士たちの姿を、ルークはしばらくの間、物陰から見送り続けた。


 それから数日後。焚き火を囲む面々の間で、噂話が飛び交っていた。

「なあ、聞いたか? 役所の役人が一人、着服の疑いでしょっ引かれたって話」

「ああ、それ俺も聞いた。孤児院の金、ちょろまかしてたらしいじゃねえか」

「役所もとばっちり食らって、上の連中がピリピリしてるってよ。今頃、尻拭いに大わらわなんじゃねえの」

 噂の輪の隅で、ルークは何食わぬ顔で干し肉を齧っていた。

(――ちゃんと、捕まったんだな)

 顔も名前も出さずに終わらせたつもりだったが、こうして人の口から結果を聞かされると、不思議な実感が湧いてくる。役人がどんな処分を受けたのか、上納先の男がどうなったのかまでは分からない。だが、少なくとも、あの着服の仕組みそのものは、これで止まったはずだった。

(――孤児院の金も、ちゃんと戻るといいけどな)

 ジャックたちの何気ない会話に相槌を打ちながら、ルークは内心でそっと胸を撫で下ろした。


 支援金の一件が片付いた頃、ルークはこれまでの稼ぎを数え直していた。ジャックの補助として得た報酬は、日々の食い扶持を賄って、なお余りがあった。

(――俺一人なら、そんなに使い道もねえしな)

 脳裏に浮かぶのは、あの日見た、庭で無邪気に笑う子供たちの姿だった。

 夜、人通りの絶えた頃合いを見計らって、ルークは再び孤児院の前に立っていた。懐には、革袋に詰めた銀貨がいくらか。

(――今度は、盗みじゃなくて、置いてくほうだけどな)

 我ながら締まらない軽口を叩きながら、気配を殺したまま門の内側へと忍び込む。玄関先に、袋をそっと置き、走り書きの紙を一枚添えた。「――子供たちのために使ってください」とだけ、たどたどしい字で記す。

 用件を終えると、ルークは振り返ることなく、そのまま闇の中へと姿を消した。

 翌朝。玄関先の袋を見つけたシスターが、驚いた様子で辺りを見回す姿を、ルークは少し離れた路地から、こっそりと見届けていた。誰の仕業かも分からぬまま、シスターは戸惑いながらも、ひどく嬉しそうに袋を抱きしめていた。

(――これで、少しは足しになるかね)

 満足げに口元を緩めると、ルークはその場を後にした。誰に感謝されるでもない、名も残らない行いだったが、それでいいのだと、ルークは思っていた。


 だが、心の底から安心しきれない自分もいた。

(――今回はうまくいった。けど、これで終わりってわけじゃねえよな)

 あの役人一人を止めたところで、根本が変わったわけじゃない。金を吸い上げる仕組みそのものが残っている限り、また別の誰かが同じ役を担うだけだ。裏で糸を引いていたあの組織――ナイトシェイド――が本気で動けば、次の役人を買収するくらい、造作もないことだろう。

(――あの名前、ちっと調べてみるか)

 それから幾日か、ルークは市場や酒場の噂話に、それとなく耳を傾けるようになった。誰かに直接尋ねるような真似はしない。ただ、聞こえてくる話の端々を、拾い集めるだけでいい。

 そうして分かってきたのは、ナイトシェイドという組織の、思いのほか大きな輪郭だった。街の裏社会の大半を牛耳り、表向きは真っ当な商会や貴族にまで、その根を伸ばしているらしい。今回の役人など、末端も末端――組織全体からすれば、取るに足らない歯車の一つに過ぎないのだろう。

(――でけえな、思ってたより)

 得体の知れない相手だと思っていたものの正体が、はっきりとした輪郭を持って迫ってくる感覚に、ルークは小さく息を呑んだ。

(――こいつを丸ごと潰す、なんてのは……)

 一瞬、頭をよぎった考えを、すぐに自分で打ち消す。

(――いや、無理だろ。今の俺には)

 仮に組織そのものに手をかけたところで、その先に待っているのは、もっと厄介な相手だ。裏で繋がっているという貴族や有力者たちが、易々と既得権益を手放すはずがない。むしろ牙を剥かれるのは、こちらの方だろう。

(――俺は、神様でも何でもねえんだ)

 目につく不正の一つや二つ、こっそり潰して回ることはできる。だが、街ぐるみで根を張った巨悪を、根こそぎ引っこ抜くほどの力は、今の自分にはない。それに――もし正面から敵に回すようなことになれば、ジャックやトッドたち、大事な仲間まで危険に晒すことになる。全員を守りきれる自信なんて、どこにもなかった。

(――やれることだけ、やる。それでいいじゃねえか)

 できることと、できないことの線引きを、ルークは静かに自分の中で引き直した。ナイトシェイドという巨大な影に、今この瞬間、正面から立ち向かうつもりはない。それは、諦めというよりも、身の丈を弁えるという、ごく当たり前の選択だった。

(――いつか、届く日が来るのかもな)

 根拠のない未来を、ほんの少しだけ思い描きながら、ルークはその考えを、そっと胸の奥にしまい込んだ。

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