狂い桜
翌朝、鳥のさえずりと共に玄海が目を覚ますと、すでに香ばしい煙の匂いが廃寺の土間に漂っていた。
老僧が細い腕で火を焚き、大きな鍋をかき混ぜている。用意された朝食は、澄んだお湯の中に数粒の米と粟が細々と浮かぶだけの、ごく薄い粥。そして山で摘んだ野草が申し訳程度に浮かぶ汁であった。
「お恥ずかしい。このような粗末なものしか出せませぬが、どうぞ」
老僧は申し訳なさそうに頭を下げたが、玄海はただ静かに掌を合わせた。
「滅相もないことでございます。ありがたく頂戴いたします」
椀を手に取り、温かな粥を一口すする。薄い塩気と穀物の僅かな甘みが、戦禍を逃れて疲れ切った玄海の心身にじんわりと染み渡っていく。
「……実はの、この米も野草も、村の方々が日々持ち寄ってくださるのですじゃ」
老僧は白く濁った瞳を和ませ、しみじみと語り継いだ。
「あの村の民はみな貧しく、明日の食にすら窮する有様。それにもかかわらず、身寄りのないこの老いぼれを案じて、自分たちの口を減らしてまでこうして食べ物を分けてくださる。有難いことにございます」
玄海は胸を強く突かれる思いだった。
都は欲望と殺戮の地獄と化し、人は生き残るために他人を蹴落とし、親兄弟すら裏切りあっていた。だが、この忘れ去られたような山奥の村には、貧しさの中で互いを慈しみ、助け合う人間の尊い営みが、奇跡のように残されていた。
(このような穏やかな村が、まだこの世に残っていたとは……)
熱いものが込み上げそうになる喉を押し殺し、玄海は不意に表情を引き締めた。
脳裏を過るのは、昨夜目にしたあの漆黒の毛並みと、 血よりも赤い瞳である。
「……ところであの猫は、どこにいるのでしょう」
玄海の声には、無意識のうちに鋭い覚悟の響きが混じっていた。
この奇跡のような村を、そして戦禍に傷つき荒廃したこの国を、あの邪悪な大妖の手から守らねばならぬ。もしあの化け猫がかつての力を取り戻し、この村を害しようとするならば——たとえ己の命を投げ打ち、刺し違えてでもここで討ち果たす。
(それが、私の……果たさねばならぬ宿命)
心の中で固く誓う玄海の殺気に、相変わらず気がつく様子もなく、老僧はおっとりと首を傾げた。
「ああ、あれですかな。あれももう年寄りですでの。このところは沢を渡った先にある大きな桜の木の下で、日がな一日過ごしておるようですじゃ。……どうやらあの桜の木が、えらく気に入っているようでしてな」
「左様でございますか……」
玄海は丁寧にお礼を言い、老僧に暇を告げて廃寺をあとにした。
歩みを進めるにつれ、手に握る錫杖の柄へ、自然と指先がめり込むほど力が入る。
頭の中を支配していたのは、十年前のあの忌まわしき光景であった。
殺気立つ空気、倒れ伏す兵たちの悲鳴、そして天を覆うほどの巨大な黒い影。あの悪夢の再来を許すわけにはいかない。過去の記憶に呑み込まれそうになりながら、玄海は沢を渡り、雑木林の奥へと足を踏み入れた。
その時だった。
冷たい山風に乗って、目の端を小さな薄紅色の欠片がひらひらと舞い過ぎた。
(……桜の花びら……?)
季節はまだ早春であり、桜が芽吹くにはあまりに早すぎる。
訝しんだ玄海がその花弁に導かれるようにして顔を上げると、木々の隙間を抜けた先の開けた広場で、あまりにも異常な光景が目に飛び込んできた。
そこには、巨大な一本の桜が、季節を嘲笑うかのように満開を誇っていた。
頭上を埋め尽くす圧倒的な薄紅。しかし、それは春の訪れを祝うような温かな桜ではない。枝々からは、まるで血を流すかのように絶え間なく花びらが散り散りと舞い落ち、空中に薄桃色の霧を作り出している。
儚く美しいはずの光景。それなのに、玄海の全身の毛穴が開き、寒気が駆け巡った。
(これは……異形のものだ。人間が目にしてよい花ではない……!)
圧倒的な狂気と静寂が同居する桜の空間。息を呑んで立ち尽くす玄海の耳朶を、低くしゃがれた声が打った。
「……日輪の子か」
ハッとして玄海は視線を落とした。
異形の桜の巨木、その太い幹に寄り添うように四肢を折りたたんでいたのは、あの黒猫であった。
漆黒の毛並みを散る花弁で飾られた猫は、ゆっくりと顔を上げ、血のように赤い双眸でじっと玄海を見つめていた。その瞳には、昨夜の無害な猫の面影はなく、千年の時を生き抜いた大妖としての、圧倒的な底知れぬ深淵が宿っていた。
「日輪の子」——その言葉が、玄海の胸の奥深くに隠していた灼熱の記憶を呼び覚ます。
十年前。
都を破滅の淵に叩き落としたこの大妖を封じ込めるべく、自らの命を全霊の結界へと捧げた男がいた。
帝——それこそが、幼き日の玄海の父であった。
あの日、父帝は燃え盛る宮殿の奥で、まだ幼かった玄海の肩を強く抱きしめ、静かに言い渡したのだ。
『あの強大なる妖気、僧たちだけで討ち倒せるものではない。かるがゆえに我が命を削り、かの大妖の妖力を封じる。……さすれば、かの大妖は封じを破らんとして必ずこの宮中、破滅の要である余の元へ襲い来るだろう。そこを僧たちに討たせるのだ。……だが、玄海そなたは逃げるのだ。生きて、この国の行く末を見届けよ』
『父上! 父上もご一緒に!』
『行け、玄海!』
突き飛ばされた背中に感じた、柱を焼き尽くす炎の熱。頬を炙る凄まじい熱気と、崩れ落ちる宮殿の音。そして、父の最期の叫び——。
父は国を守るため、そして我が子を逃がすために、その身を犠牲にしてこの化け物を封じ込めたのだ。その後、命を落とした父の骸すら、玄海は拾うことができなかった。
目の前にいるのは、国を滅ぼし、己の家族を奪い、自分を孤独な流浪の身へと追いやった元凶。
「……貴様……っ!!」
玄海の腹の底から、臓腑を焼き尽くすような苛烈な憎悪が湧き上がった。
かつて父が流した血、奪われた幾千の命、そして己が十年間抱え続けてきた絶望と怨嗟。それら全てが激しい炎となって玄海の霊力を燃え上がらせる。
握りしめた錫杖から、鋭い金属音が鳴り響いた。
「よくも……よくも父上を……この国を!!」
玄海は数珠を掲げ、経を叫ぶように唱え始めた。散りゆく薄紅の花吹雪の中、僧の眼光は父の仇に対する凄まじい殺意で赤く染まっていた。
しかし、対峙する射干玉の猫は、襲いかかる霊圧の渦の中に身を置きながらも、逃げようとも身構えようともしない。ただ静かにその赤い瞳で玄海を見つめ、深い息を吐き出すだけであった。




