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散華

裂帛の気合とともに、玄海は手にした数珠を掲げ、右手の印から渾身の法力を解き放とうとした。

金色の霊気が弾け、大妖の身体を打ち据えんとした——その瞬間であった。


ゴオッ……と空間が鳴動し、旋風が巻き起こった。


次の瞬間、玄海の視界は鮮烈な薄紅の奔流によって埋め尽くされた。

やわらかなはずの桜の花びらが、鋭利な刃と化して渦を巻く。頬にピリッとした痛みが走り、数筋の赤い血が散った。


(なっ……!?)


玄海が気合を込めて解き放とうとしていた必殺の法力は、その桜の旋風に触れた途端、まるで打ち水が蒸発するように跡形もなく霧散してしまったのだ。


「やめておけ、日輪の子よ」


静寂を取り戻した花吹雪の向こう側から、低く、しかし骨の髄まで響くような声が届いた。

黒猫は座したまま、血の如き赤き瞳を玄海へ向けている。


「忌まわしき術に力の大半を封じられたとはいえ、この身は千年の時を生きた大妖。夜闇の化身にして日輪と対を成すもの。そなた如きに、我は屠れぬ。」


目の前の大妖自身が力の片鱗を振るった様子は全くなかった。すなわち、玄海の渾身の法力を容易く打ち消したのは、この異形の桜そのものの意志と霊力であったのだ。


父の仇。国の災い。己の命と刺し違えてでも——そう固く誓った決意を、嘲笑うかのような圧倒的な力の差。

玄海は手に握る錫杖を震わせたまま、ただ呆然と立ちすくむことしかできなかった。


黒猫は玄海など端から眼中にないかのように悠然と立ち上がると、その脇を静かに通り過ぎて行った。寺へ戻り、あの老僧の元へ帰るつもりなのだろう。


(……勝ち目がない)


己の無力が、冷酷な現実として突きつけられていた。今の己では大妖を討つどころか、一矢報いることすら叶わない。

だが、父の仇であり、国を滅ぼしかけた化け物に背を向け、このまま村を去ることなど到底できるはずもなかった。


玄海は再び廃寺を訪れ、老僧に深々と頭を下げた。


「昨夜の宿のお礼に、しばらくこの寺と村にとどまり、お手伝いをさせていただきたく存じます」


「おお、それはありがたいことですじゃ。何もお構いできませんが、どうぞお好きなだけおいでくだされ」


老僧は白く濁った瞳を和ませ、快く応じてくれた。


翌日から、玄海は村の中をくまなく歩き回った。村人たちと親しく言葉を交わし、畑仕事を助け、山に入っては野草を摘んだ。さらに傾いた寺の柱を修繕し、村人と老僧の生活を支える傍ら、異形の桜の正体を探り続けた。


地に根差した怪異であるならば、その力の源となる霊脈の流れが必ず近くにあるはずだ。それを見つけ出し、断ち切ることができれば——。


大妖は父帝の術により、かつての力の大半を封じられていると言った。もしあの異形の桜との共鳴によって存在を保っているのだとすれば、桜の源を断ち、朽ちさせることができれば、今の己の法力でも討てるやもしれない。


そう意気込んで探っていた玄海だったが、ある日、決定的な「違和感」の正体を目撃することになる。

野良仕事の最中、一人の村人が鎌で誤って深く腕を切った。

玄海が驚いて駆け寄ったとき、信じがたい光景を目にした。村人の肉は大きく裂けているというのに、その傷口からは——一滴の血も流れていなかったのだ。村人は痛がる様子もなく、ヘラヘラと笑いながら手拭いを巻くだけであった。


(血が……出ていない……?)


玄海は寒気を覚えて息をのんだ。

村全体を覆う大妖の気配。それほど強大な妖気でありながら、どれほど感覚を研ぎ澄ませても源流を辿ることができなかった理由が、ついに氷解した。

気配を辿れなかったのではない。村に漂う気配があまりにも「均一」であったからだ。村の空間そのものが、土も、家も、そして生きているはずの村人たちすらも、すべて同じ妖気で構成されていたのだ。


(生きている人間は……あの老僧ただ一人……!)


真実はあまりにも凄惨であった。

十年前、傷ついた大妖がこの山奥に迷い込んできた直後のこと。この地を巨大な「山津波」が襲ったのだ。土砂は村を呑み込み、村人は一人残らず押し潰されて死んだ。たまたま高台にあった廃寺と、その脇の桜の大木だけが残された。

一瞬にして身寄りを失い、壊滅した村の中で呆然と佇む、目を病んだ一人の老僧。


その姿を目にした大妖は——長き生の果てに変異を起こし始めていた一本の枯れ桜に、己の遺された全霊力を注ぎ込んだ。

そして、老僧に見せるための「優しい村の幻影」を作り出したのだ。


父帝の封じの術により、大妖の力は削ぎ落とされていた。幻影を維持するためには、大妖自身の力だけでは足りず、桜の霊木と深く魂を結びつけるしかなかった。

幻影を生み出し続けて十年。桜に注ぎ込まれた妖気の潮流は、もはや不可逆のものとなり、大妖の命そのものを削り続けていた。

老僧の生命の灯火が消え去るとき、大妖の魂もまた無へと帰す。


(なぜだ……)


玄海は絶句した。

かつて無差別に殺戮を繰り返し、国を脅かした恐怖の象徴。その化け物が、なぜただの一人の人間のために、自らの命を擦り減らして幻像を見せ続けているのか。


それは老僧に対する気まぐれな憐れみであったのか。それとも、千年の長き生に飽き果て、穏やかな死を望んだ故の戯れであったのか。その答えは、大妖の赤き瞳の奥に隠されたままだった。


それから幾日も経たぬ、あるしんしんと冷え込む夜のことであった。

「……おや、お坊さま……」

囲炉裏の傍らで横になっていた老僧が、かすかな声で玄海を呼んだ。

玄海が駆け寄ると、老僧は白く濁った目を天井に向け、満足そうな笑みを浮かべていた。


「今夜は……どうしてでしょうな……村のみんなの楽しそうな声が聞こえますんじゃ……。皆、わしを待ってくれているような……」


「住職……」 


「ありがたいことです……。この貧しい村で……温かい人々に囲まれて……わしは、本当に幸せでしたじゃ……」


老僧の手が、ゆっくりと力なく床に落ちた。安らかな、眠るような最後であった。


その瞬間。


囲炉裏の脇に丸くなっていた黒猫が、静かに目を開けた。

射干玉の毛並みから、ポロポロと光の粒子が零れ落ちてゆく。血のように赤かった瞳は、すでに静かな透明感を湛えていた。

黒猫は玄海の方を一度だけ振り返り、言葉ではなく、ただ静かな眼差しを投げかけた。


「大妖よ……お前は……」


玄海が声をかける間もなく、黒猫の姿は柔らかな光の帯となって弾け、夜空へと消えていった。


翌朝、玄海が目を覚ますと、そこには異様な光景が広がっていた。

昨日まで確かに存在していた数々の茅葺き屋根は消え去り、そこには何年も前に崩れ去ったであろう山津波の凄惨な跡が広がっていた。村人たちの姿はどこにもない。

ただ、高台の廃寺と、その傍らに立つ一本の大木だけがそこに残されていた。


玄海は老僧の遺体を手厚く葬り、墓標の前に静かに佇んだ。

見上げれば、あの異形の桜が、最後の大風を受けて狂おしいほどに咲き誇っている。だが、その花弁は散る側から光の粒となって消え、枝々は瞬く間に元の乾いた木肌を露わにしていった。

大妖の魂が尽き、幻影を維持する力も消えたのだ。


玄海は背に笈を負い直し、手にした錫杖を鳴らした。


(父上……。私は、仇を討つことができませんでした)


いや、父帝を殺した仇敵は、きっと10年も前に死んでいたのだ。


ここにいたのは、邪悪な化け物ではない。一人の老人の孤独を救い、ともに消えていった哀しい一過の魂であった。


玄海はつと花を散らせる桜の木に目をやり、そして一度も振り返ることなく山道を下り始めた。


背後で、最後の薄紅の花びらが一枚、風に乗って舞い落ちてゆく。


(あの桜も……最後の一輪が散るとともに、その長き生を終えるのだろう)


去りゆく流浪の僧の耳に届くのは、ただ静かな山風の音と、静寂の中に響く己の錫杖の音だけであった。

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