落人の里
戦禍の炎に包まれた都を後にし、ただ一人、雲のように各地を流れ歩く僧があった。
名を玄海という。
背に負うた笈は古び、着古した墨染めの法衣の裾は、各地の泥と風雨にさらされてボロボロに破れていた。
手に握る木製の錫杖だけが、路上の悪意や浮遊する有象無象の怨霊を退ける唯一の頼りであった。
天下は乱れに乱れていた。破却された寺塔、打ち捨てられた屍肉を貪る烏、親を失って道端で立ち枯れてゆく幼子——
玄海が目にしてきたのは、この世の地獄そのものであった。人の業が血の河となって流れ、その陰湿な気毒に引き寄せられた小鬼や悪霊が、いよいよ乱世の惨状を深めている。
そんな荒涼とした旅の果て、玄海が深く険しい山道を抜け、足を踏み入れようとしていたのは、山に飲み込まれかけるような人里離れた小さな村であった。
暮れ泥む山あいに、ささやかな茅葺きの屋根が十数軒、身を寄せ合うようにして並んでいる。田畑は痩せ、決して豊かな土地には見えなかった。
「……また一つ、戦の火の手を逃れた落人の里か」
玄海は息を吐き出し、深く被っていた笠の庇を少し持ち上げた。
都の華やかさを知る者から見れば、あまりにも貧しく、打ち捨てられたような落人村である。だが、村の入口に差し掛かった玄海に声をかけてきた男の表情を見て、僧は小さく目を見張った。
「これ、お坊さま。こんな山奥にまで、ようおいでなさった」
野良仕事の手を止め、汗を拭いながら歩み寄ってきたのは、肌の焼けた朴訥な村人であった。その顔には、乱世の民が共通して宿している、見知らぬ他者への猜疑心や怯えの色がなかった。どこまでも穏やかで、慈悲深い笑みが浮かんでいた。
「わしはしがない流浪の旅僧でございます。日が落ちてまいりました。できれば今宵一夜、雨風を凌げる場所をお借りできぬかと……」
玄海が頭を下げると、村人は困ったように白髪混じりの頭を掻いた。
「いやぁ、見ての通り貧しい村でな。お前様にお見せできるような立派な居楼なんぞはねえんだ。だが……そうだな、村の外れに古い寺がある。粗末なところだが、住職がお一人でおられるはずだ。そこなら、温かい汁物くらいは出してもらえるやもしれん」
「寺……左様でございますか。かたじけなく存じます」
「気をつけてな、お坊さま。夜の山道は冷えるでの」
村人はそう言って、手拭いで汗を拭いながら親切に寺への道を教えてくれた。さらにすれ違う他の村人たちも、玄海を見ては優しく会釈を交わし、小さな握り飯を分けてくれようとする者すらいた。
戦乱の世にあって、人の心がこれほどまでに平穏で、優しさに満ちている場所がまだ残っていたのか。玄海は胸の奥が温かくなるのを覚えながら、教えられた村外れの小道へと足を進めた。
しかし——
村の奥へ進み、人影が疎らになるにつれ、玄海の手にする錫杖の先から、微かに「チリン……」と冴えた金属音が響いた。
玄海はふと足を止め、眉間にしわを寄せた。
(……これは、何の気配だ?)
首を傾げる。背筋を冷たい指でなぞられたような、奇妙な違和感。
気配の主は、間違いなく「妖異」であった。それも、生半可な小鬼や野狐の類ではない。濃密で、底知れぬ霊気を孕んだ気配が、まるで薄い霧のように村全体をすっぽりと覆い尽くしているのだ。
「すわ、この村を狙う大妖でも山中に潜んでいるのか……?」
玄海は即座に印を結び、両目を閉じて法力を研ぎ澄ませた。妖気の源流を辿り、その正体を突き止めようと試みる。
しかし、不思議なことが起きた。
妖気は確かに存在する。玄海の肌を粟立たせるほど濃密であるにもかかわらず、その気配には「邪念」や「殺意」が一切感じられないのだ。まるで春の陽気のように茫洋として、村の空間そのものに溶け込んでいる。どこから発せられているのか、どれほど感覚を研ぎ澄ませても、まったく起源を辿ることができなかった。
(これほどの範囲を覆うほどの妖気……。並の大妖でもこれほど見事に気配を隠し通すことは叶わぬはず。一体、何がこの村に存在しているというのだ……?)
拭えぬ胸騒ぎを抱えたまま、玄海は再び足を踏み出した。
道は次第に勾配を増し、うっそうとした雑木林の中へと続いてゆく。その行き止まりに、教えられた「寺」はぽつりと佇んでいた。
「……これは……」
玄海は思わず声を漏らした。
寺と呼ぶにはあまりにも痛々しい、今にも崩れ落ちそうなあばら屋であった。
柱は傾き、茅葺きの屋根は腐ちかけて穴が開き、山風が吹き抜けるたびに「ギィ……」と悲鳴のような軋み声を上げている。今にも一陣の強風が吹けば、そのまま倒壊してしまいそうな粗末さであった。
本当にここに人が住んでいるのだろうか。半信半疑のまま、玄海は破れた障子戸の前で声をかけた。
「ごめんください。旅の僧でございます。一夜の宿を賜りたく……」
しばしの沈黙の後、奥の方からギシ、ギシと床板を踏み鳴らす足音が聞こえてきた。
ガラリと引き戸が開く。
現れたのは、すっかり背の曲がった老僧であった。
使い古された黒い法衣を纏い、その両の瞳は白く濁り、ほとんど光を失っているようだった。目が見えていないのか、手探りで柱を掴みながら、しかしその顔にはどこまでも柔和で、溢れんばかりの温かな笑みが浮かんでいた。
「おお……これはこれは。こんな山奥の廃寺によくぞおいでになられましたな。何もないところですが、どうぞ、中へお入りくだされ」
「……恐縮に存じます」
老住職の気取らない温かな迎え入れに、玄海は安堵の息をつき、粗末な敷居を跨いだ。
寺の内部は外観通り荒れ果てていたが、掃除だけは丁寧に行き届いているようであった。
土間の奥にある囲炉裏には小さな火がくべられ、パチパチと薪のはぜる音が静寂を温めている。
老住職に促されるまま土間から上がりかけた玄海であったが、その足が、凍りついたようにぴたりと止まった。
囲炉裏の傍ら。畳まれた薄い座布団の上に、一匹の猫が静かに座していた。
(——なっ……!?)
玄海の全身の毛髪が倒立し、総身に激しい寒気が走った。
その毛並みは、夜の闇よりもなお濃い、光をも吸い込むような「射干玉」の漆黒。
そして、じっとこちらを見つめてくる両の瞳は、滴り落ちる生の血よりもなお深く、妖しく奔流する「赤」。
その猫が、ゆっくりと瞬きをした。
次の瞬間、玄海の脳裏を強烈な衝撃が貫いた。
村全体を薄く覆っていたあの底知れぬ妖気が、この一匹の猫の体内から、溢れ出る泉のようにコンコンと湧き出しているのを感じ取ったのだ。
(まさか……馬鹿な! あり得ぬ!)
玄海の手にする錫杖が、ガタガタと激しく震え出す。
忘れるはずもない。玄海がまだ都で暮らす少年であった十年前。
殺戮の限りを尽くし、幾千の兵を屠り、帝の宮廷すら恐怖で一夜にして崩壊せしめかけた、あの伝説の化け猫——
幾人もの高僧が命を落とし、最後は結界と霊剣によって深手を負わせ、山奥へと追い詰めて討ち取ったはずの大妖。
その姿こそ、血のごとき赤き瞳を持つ、黒猫の異形ではなかったか。
「この……この、猫は……っ!?」
玄海の声は、恐怖と戦慄でかすれ、喉の奥で引きつっていた。腰の数珠を掴む手に力が入り、いつでも法力を打ち込めるよう、全身の霊力を極限まで跳ね上げる。
もしこれが、あの十年前の大妖の生き残りであるならば、この小さな村など一瞬で血の海と化す。いや、かつての力を取り戻せば、再びこの国全体に災厄が降り注ぐことになる。
しかし、玄海の緊迫した殺気と震える声にまるで気がつかない様子で、老住職は穏やかに微笑みながら、ゆっくりと腰を下ろした。
「ああ、この子のことですかな……」
老住職は白く濁った瞳を猫の方へと向け、愛おしそうに目を細めた。
「十年ほど前になりますかな……。ひどい深手を負い、血まみれになってこの裏山から迷い込んできたのですじゃ。あまりに痛々しくてな……薬草を塗り、傷が治るまでと思って世話をしているうちに、すっかりこの廃寺に居付きました」
そう言って、老住職はシワだらけの温かな手を伸ばした。
(やめろ! 触れるな!)
玄海が叫びそうになったその時。
大妖であるはずの黒猫は、逃げるでもなく、襲いかかるでもなく——ただ静かに目を細め、老人の痩せた手に己の頭をすり寄せたのだった。
「ゴロゴロ……」
喉を鳴らすその音は、どこにでもいるただの無害な飼い猫そのものであった。
射干玉の毛並みを撫でる老住職の手と、それに気持ちよさそうに身を任せる赤き瞳の化け物。
玄海は、息をすることすら忘れ、目の前のあまりにも異常で、あまりにも静かな光景をただ呆然と見つめ続けるしかできなかった。




