# 第七話 行く宛のない者同士
自由だと告げたところで、少女がどこかへ歩き去っていくことはなかった。
当然だった。自由という言葉には、本来、行き先が伴っているはずだった。だが、少女には、帰る場所も、頼れる相手も、何一つなかった。奴隷として売られるまでの経緯を、私はまだ詳しく知らなかったが、少なくとも、この街に彼女の居場所がないことだけは、その立ち尽くした背中を見れば明らかだった。
広場に、私たち二人だけが取り残された恰好になった。少女は、私の後をついてくるでもなく、かといって立ち去るでもなく、ただ、少し離れた場所に立っていた。
私は、しばらく考えた末に、覚えたての言葉で尋ねた。
「行く場所、あるか」
少女は、首を横に振った。短い仕草だったが、それだけで、これまでの彼女の来し方の重さが伝わってくる気がした。
私自身、この世界に来て一年以上が経っていたが、いまだに「行く場所」と呼べるようなものは、厩舎の片隅くらいしか持っていなかった。誰かを養う余裕など、正直なところなかった。財布の中身は、少女を買った時点で、ほとんど底をついていた。
それでも、ここで彼女を置き去りにするという選択肢は、最初から私の中になかった。教員という仕事を、十年以上続けてきた人間の性分だったのかもしれない。目の前に、行き場のない子供がいて、それを見捨てるという判断は、どうしても私の中で選択肢として立ち上がってこなかった。
「一緒に来るか」
私がそう言うと、少女は、驚いたように顔を上げた。命令ではなく、問いかけとして向けられた言葉に、戸惑っているようだった。それから、ゆっくりと、小さく頷いた。
厩舎までの帰り道、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。カタコトの言語力では、複雑な会話を組み立てる余裕もなかったし、少女もまた、必要以上に何かを語る様子はなかった。ただ、半歩後ろをついてくる足音だけが、ずっと聞こえていた。
厩舎の主人は、私が少女を連れて戻ってきたのを見て、驚いた顔をしたが、特に何を咎めることもなかった。この街では、そうした事情を詮索しないことが、暗黙の礼儀になっているようだった。
その夜、藁の上に、二人分の寝床を作った。少女は、私から少し距離を置いた場所に、身を縮めるようにして横たわった。警戒しているのが、はっきりとわかった。それも当然だった。少女にとって、大人の男というのは、これまで碌な扱いをしてこなかった存在だったに違いない。
私は、無理に距離を詰めることはしなかった。ただ、暗闇の中で、覚えたての言葉を、ゆっくりと選びながら話しかけた。
「俺は、お前に何もさせない。お前は、俺のものじゃない」
返事はなかった。だが、少女の呼吸が、わずかに緩んだ気配があった。
翌日から、少女は、私の仕事についてくるようになった。最初は、少し離れた場所からじっと作業を見ているだけだった。だが、一週間もすると、水路の縁に座り込み、私が搔き出した汚泥を、慣れない手つきで土手に運ぶのを手伝うようになっていた。
止めるべきかどうか、私は何度も迷った。だが、少女の方が、それを望んでいるようだった。誰かの役に立つということが、彼女にとって、久しぶりに与えられた居場所の実感なのかもしれなかった。私はその気持ちを無下にすることもできず、結局、二人で水路に降りる日々が、しばらく続くことになった。
言葉は、少しずつ増えていった。少女は、私が話す覚えたての言葉を、驚くほどの速さで吸収していった。逆に、私が彼女から新しい単語を教わることも多かった。教える立場と教わる立場が、絶えず入れ替わるような日々だった。
ある夕方、水路から上がった少女の手を、ふと見た。まだ十四か十五という歳の、本来なら鉛筆を持っているはずの手が、荒れて、皮が硬くなり始めていた。汚泥にまみれたその手を見た瞬間、私の中で、それまで曖昧なままにしていた何かが、はっきりとした輪郭を持った。
この子に、この仕事をさせ続けていいのか。
答えは、考えるまでもなかった。だが、答えが出たところで、この街で、彼女にできる別の仕事があるわけではなかった。魔法の才もなく、文字も読めず、身寄りもない少女に用意されている道は、この街では、驚くほど限られていた。
私は、この一年余りで貯めた金の残りと、これから先の計画を、頭の中で何度も組み立て直した。この街に留まる限り、私たちにできることは、ドブさらいを続けることだけだった。だが、王都には、もっと大きな冒険者ギルドがあり、もっと多くの仕事があり、もしかしたら、少女の生まれや、彼女がなぜ奴隷として売られることになったのか、その経緯を知る手がかりもあるかもしれない。
「王都に行こう」
ある夜、私は少女にそう告げた。少女は、少し驚いた顔をしたが、それ以上に、行き先を自分から決めてもらえたことそのものに、戸惑っているようだった。
「なぜ」
「ここには、お前にできることが、少なすぎる」
少女は、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。理由の全部を理解したわけではなさそうだったが、少なくとも、私についていくという意志だけは、その仕草にはっきりと表れていた。
王都までの道のりは、決して近くはなかった。それでも、荒野で目を覚ましたあの朝と違い、今度は一人ではなかった。隣には、行く宛のない者同士として出会った少女がいた。
何を探しに行くのか、まだ明確な答えは持っていなかった。それでも、少女にこの仕事をさせ続ける以外の道を、私は探しに行くつもりだった。




