# 第五十四話 残った一人
うら若きフランチェスカが、王都で名を成すまでには長い月日がかかった。
最初の数年は、絵が売れることも稀だった。それでも、腐らず描き続けるうちに、彼女の画風は次第に評判を呼ぶようになっていった。工房を構え弟子を取るようになる頃には、フランチェスカの名は王都の近代芸術において、誰もが知る頂点の名前になっていた。
マリオがその工房の門を叩いたのは、青年になったばかりの頃だった。
それまで、マリオはこれといった取り柄もなく、職を転々としていた。何をやらせても、要領が悪く、長続きしない。そんな自分にうんざりし始めていた頃、市場の片隅で、一枚の絵に目を奪われる。彼は全財産を誰が描いたかもしれないその絵の購入に充てた。
それは、未だ評価されず苦しみながらも、創作を止めなかったフランチェスカが、下積み時代に描いた一枚だった。
その絵を前に、マリオは、しばらく、動けなかった。理由はわからない。ただ、涙が、止まらなかった。
「これを、描いた人に、会いたい」
その一心でマリオは王都中の画廊を訪ね歩き、フランチェスカの工房を探し出した。
弟子入りしてからも、マリオの不器用さは変わらなかった。絵の具の溶き方一つ、満足に覚えられない。構図の基本すら、何度教えられても身につかない。
工房には、次々と新しい弟子が入ってきた。皆、マリオより後から入ったにもかかわらず、めきめきと腕を上げ、やがてそれぞれの才を認められ、工房を巣立っていった。
「一番弟子のマリオ」
いつしか、そう呼ばれるようになっていたが、それは、決して誇らしい意味ではなかった。ただ、一番古株というだけで、誰よりも下手だという陰口交じりの呼び名だった。
それでも、マリオは工房を離れようとはしなかった。
フランチェスカ自身も、その出来の悪い弟子を、なぜか突き放すことができずにいた。理由は、フランチェスカ自身にも、うまく説明できなかった。ただ、不器用なりに誰よりも真摯に、絵と向き合うマリオの姿を、見放す気には、どうしてもなれなかった。
だが、その均衡は、フランチェスカが病で視力を失ったことで、崩れることになった。
目の見えなくなった師匠に、もはや学ぶことはない。そう判断した弟子たちは、潮が引くように、次々と工房を去っていった。
最後まで工房に残ったのは、マリオ、ただ一人だった。
マリオは、フランチェスカの身の回りの世話を、甲斐甲斐しく焼いた。食事を整え、着替えを手伝い、そして、事あるごとに、こう勧めた。
「先生、また何か、作ってみませんか」
その言葉に、フランチェスカは、いつも苦い顔をした。
ある夜、堪忍袋の緒が切れたように、フランチェスカは声を荒らげた。
「いい加減にしな! こんな、目の見えないばばあのところに、いつまでもいるもんじゃない!」
マリオは、驚いたように身を竦めた。
「あんたの作品は……わかるだろう。何年、私のところにいたって、芽が出やしなかった。もう、潮時なんだよ。お前も、、、私も」
その言葉には、突き放すような冷たい響きがあった。だが、その奥に、フランチェスカ自身の深い諦念と、そして、これ以上この男の人生を、自分の道連れにしたくないという、不器用な優しさが隠されていた。
マリオは何も言い返さず、その夜、静かに自室へと下がっていった。
翌朝、フランチェスカは重い気持ちで、目を覚ました。
きっと、マリオはもう、出ていってしまっただろう。そう思うと、胸の奥が鉛のように重く沈んだ。せいせいしたはずなのに、なぜか、涙が滲んだ。
杖を頼りに、壁伝いに工房へと足を進める。もう、誰もいない、静まり返った工房を想像しながら。
だが、扉を開けた瞬間、微かな物音がした。誰かがいる気配。
「誰だい!」
思わず、声を張り上げた。
「おはようございます、先生!」
返ってきたのは、聞き慣れた明るい声だった。
いつもと、何一つ変わらない調子で、マリオが工房の道具を、準備し始めるその気配がした。
フランチェスカは、しばらく、その場に立ち尽くしていた。閉じたままの瞼の奥から、堪えきれない涙が静かに、こぼれ落ちた。
「馬鹿だね、お前は」
震える声でそう呟いたフランチェスカの言葉には、これまでにない、深い安堵が滲んでいた。




