表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
50/59

# 第五十話 紙の上でだけ

「数字と、二度と関わりたくないと伺いました。それでも、ここに来たのはなぜですか」


 私がそう尋ねると、ミラはしばらく俯いたまま黙っていた。


「このままじゃ、いけない気がして。でも、いざ数字を見ると、身体が竦んでしまうんです。それは今も変わりません」


 その言葉には、嘘のない切実さがあった。私は、無理に数字と向き合わせることを、まず避けることにした。


「では、今日は数字を一切使わないところから、始めましょう」


 ミラは、意外そうな顔をした。


 私は、一枚の紙を、彼女の前に置いた。


「これは、ただの紙です。あなたを、罰することも、傷つけることもありません。まずは、そのことを確かめるところから、始めませんか」


 ミラは、恐る恐る紙に触れた。何も起きないことを確かめるように、何度もその感触を指先で辿っていた。


 次の授業で、私は紙の上に、一つだけ小さな数字を書いてみせた。


「これは、ただの記号です。あなたを、傷つける力は持っていません」


 ミラは、その数字をじっと見つめたまま、しばらく動けずにいた。呼吸が、浅くなっているのが傍から見ても、わかった。


「無理に、触れる必要はありません。ただ、見るだけで構いません」


 私は、根気強くそう声をかけ続けた。急かすことはしなかった。ミラのペースに、徹底して寄り添うことを心がけた。


 その日、ミラは結局、数字に指一本触れることができなかった。だが、拠点を去る間際、彼女はぽつりとこう漏らした。


「今日は、逃げ出さずに、済みました。それだけで、少し驚いています」


 その言葉に、私は静かに頷いた。


 それから、幾度となく同じような授業が繰り返された。数字を見る。数字に、指先でそっと触れてみる。紙の上に、自分の手でその形をなぞってみる。一つ一つの段階を、ミラは時間をかけて、少しずつ乗り越えていった。


 ある日、レクシアが授業の合間に顔を出した。


「ミラさん」


 レクシアが、静かに声をかけた。


「私も、昔値段をつけられて、売られたの。数字が、自分の価値を勝手に決めてしまう。その感覚が、どれほど怖いものか。私にも、少しだけわかる気がする」


 その言葉に、ミラは驚いたように顔を上げた。


「あなたが……?」


「ええ。今はこうして、魔法を使って生きてる。でも、あの頃の恐怖は、今でも時々思い出す」


 レクシアの静かな告白に、ミラはしばらく言葉を失っていた。それから目に涙を滲ませながら、小さく頷いた。


「私だけじゃ、なかったんですね」


 その一言には、これまでの孤独が、少しだけ和らいだような、そんな響きがあった。


 その日を境に、ミラの上達は少しずつ、加速していった。紙の上でなら、数字はもう彼女を脅かすものではなくなっていた。簡単な足し算、引き算。震える手で、それでも一つ一つ、確実に、計算をこなせるようになっていった。


「数字は、道具です。使う人次第で、人を傷つけることも、助けることもできる」


 私がそう伝えると、ミラは静かに頷いた。


「いつか、私もその道具を、誰かのために使えるようになりたいです」


 その言葉には、初めて出会ったときにはなかった確かな芯の強さが宿っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ