# 第五十話 紙の上でだけ
「数字と、二度と関わりたくないと伺いました。それでも、ここに来たのはなぜですか」
私がそう尋ねると、ミラはしばらく俯いたまま黙っていた。
「このままじゃ、いけない気がして。でも、いざ数字を見ると、身体が竦んでしまうんです。それは今も変わりません」
その言葉には、嘘のない切実さがあった。私は、無理に数字と向き合わせることを、まず避けることにした。
「では、今日は数字を一切使わないところから、始めましょう」
ミラは、意外そうな顔をした。
私は、一枚の紙を、彼女の前に置いた。
「これは、ただの紙です。あなたを、罰することも、傷つけることもありません。まずは、そのことを確かめるところから、始めませんか」
ミラは、恐る恐る紙に触れた。何も起きないことを確かめるように、何度もその感触を指先で辿っていた。
次の授業で、私は紙の上に、一つだけ小さな数字を書いてみせた。
「これは、ただの記号です。あなたを、傷つける力は持っていません」
ミラは、その数字をじっと見つめたまま、しばらく動けずにいた。呼吸が、浅くなっているのが傍から見ても、わかった。
「無理に、触れる必要はありません。ただ、見るだけで構いません」
私は、根気強くそう声をかけ続けた。急かすことはしなかった。ミラのペースに、徹底して寄り添うことを心がけた。
その日、ミラは結局、数字に指一本触れることができなかった。だが、拠点を去る間際、彼女はぽつりとこう漏らした。
「今日は、逃げ出さずに、済みました。それだけで、少し驚いています」
その言葉に、私は静かに頷いた。
それから、幾度となく同じような授業が繰り返された。数字を見る。数字に、指先でそっと触れてみる。紙の上に、自分の手でその形をなぞってみる。一つ一つの段階を、ミラは時間をかけて、少しずつ乗り越えていった。
ある日、レクシアが授業の合間に顔を出した。
「ミラさん」
レクシアが、静かに声をかけた。
「私も、昔値段をつけられて、売られたの。数字が、自分の価値を勝手に決めてしまう。その感覚が、どれほど怖いものか。私にも、少しだけわかる気がする」
その言葉に、ミラは驚いたように顔を上げた。
「あなたが……?」
「ええ。今はこうして、魔法を使って生きてる。でも、あの頃の恐怖は、今でも時々思い出す」
レクシアの静かな告白に、ミラはしばらく言葉を失っていた。それから目に涙を滲ませながら、小さく頷いた。
「私だけじゃ、なかったんですね」
その一言には、これまでの孤独が、少しだけ和らいだような、そんな響きがあった。
その日を境に、ミラの上達は少しずつ、加速していった。紙の上でなら、数字はもう彼女を脅かすものではなくなっていた。簡単な足し算、引き算。震える手で、それでも一つ一つ、確実に、計算をこなせるようになっていった。
「数字は、道具です。使う人次第で、人を傷つけることも、助けることもできる」
私がそう伝えると、ミラは静かに頷いた。
「いつか、私もその道具を、誰かのために使えるようになりたいです」
その言葉には、初めて出会ったときにはなかった確かな芯の強さが宿っていた。




