# 第五話 熊手を担ぐ日々
言葉が、どうにか用を成すようになったのは、街に着いてから一月半ほど経った頃だった。
複雑な会話はまだ無理だった。だが、値段を聞き、断り、頷き、簡単な用件を伝える程度のことなら、カタコトでもどうにか通じるようになっていた。子供に教わった言葉は、教科書的な正しさよりも、生きるための実用性を優先したものだった。おかげで私の話す言葉は、今思えばずいぶんと粗野なものだったはずだが、それでも通じることには変わりなかった。
その子供とは、ある時期を境に、会えなくなっていた。
いつからだったか、はっきりとは思い出せない。気づけば、いつもの路地に姿がなくなっていた。数日は、たまたま行き違っているだけだろうと思っていた。だが、一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、あの大きな目をした子供は現れなかった。
周りの者に尋ねてみても、誰も詳しいことは知らなかった。この街では、子供が一人いなくなったところで、誰も気に留めない。それが当たり前のことのように語られるのが、何より堪えた。病か、事故か、それとも単に、私の知らない場所へ移っていっただけなのか。答えは、最後までわからなかった。
私にとって、その子供は、この世界で初めての「先生」だった。読み書きも、体系だった教え方も知らない、ただの痩せた孤児だったが、それでも私は、生きるための言葉のほとんどを、あの子から教わった。礼を言う機会すら、結局訪れなかった。
しばらくの間、私は路地を通るたびに、無意識のうちにあの子の姿を探していた。だが、探すことにも、いつか疲れてしまう。日々の仕事に追われるうちに、探す回数は減り、やがて、探していたことすら忘れていく自分に気づいて、そのことに、静かな罪悪感を覚えた。
言葉が少しずつ通じるようになって、私は初めて、冒険者ギルドという建物の扉をくぐる勇気を持てた。
中は、大通りで見かけた冒険者たちが、酒場さながらに集まる場所だった。受付には、依頼が書かれた紙が何枚も張り出されていたが、当然ながら私には読めない。それでも、受付の女に向かって、覚えたての言葉で「仕事、探してる」とだけ伝えた。
女は私の身なりを一瞥し、それから、さして驚いた様子もなく言った。
「読み書きは」
「できない」
「戦えるか」
「できない」
女は少し間を置いてから、奥の棚から一枚の依頼票を取り出した。文字は読めなかったが、女が口にした言葉だけは、その日以来、耳に焼き付いて離れなかった。
「ドブさらいだ。誰でもできる。誰もやりたがらない」
渡されたのは、柄の長い鉄製の熊手だった。持たされてすぐに、その重さに驚いた。剣も槍も持ったことのない身体には、道具としては十分すぎる負荷だった。
仕事の内容は、聞いた通りの、単純なものだった。街の地下を這う水路に降り、詰まった汚泥や、流れ着いたごみを、ひたすら搔き出す。臭いは強烈で、最初の数日は、仕事を終えるたびに胃の中身を戻しそうになった。日当はわずかだったが、それでも、パンを拾わずに買える程度の金にはなった。
それから、私は毎日のように、その熊手を担いで水路に降りた。
最初の一月は、ただ耐えることしか考えていなかった。だが、続けるうちに、身体はこの仕事の呼吸を覚えていった。汚泥の溜まりやすい箇所には共通の傾向があること。雨の翌日は流れが速く、作業がしやすいこと。逆に晴れが続くと、汚泥が固まって、熊手が通りにくくなること。誰に教わったわけでもなかったが、毎日同じ場所で同じ作業を繰り返すうちに、自然と身体が覚えていった。
同じ水路で働く者は、私のほかにも何人かいた。訳あって故郷を追われた者、身体を壊して他の仕事に就けなくなった者、種族の違いで街の仕事から弾かれた者。誰もが、それぞれの理由で、この最底辺の仕事にたどり着いていた。最初は誰とも口をきかなかった私も、半年も経つ頃には、彼らと簡単な世間話を交わせるようになっていた。
「あんた、ずいぶん丁寧に搔くな」
ある日、隣で作業をしていた初老の男に、そう声をかけられた。他の者たちは、とにかく早く終わらせることを優先して、雑に熊手を動かす。私は無意識のうちに、詰まりの原因になっている箇所を見極めてから、そこを重点的にさらうようにしていた。染み付いた癖だった。原因を見て、優先順位をつけて、効率よく手を入れる。教室で、成績の伸び悩む生徒のノートを見るときと、やっていることは大差なかった。
「そのほうが、後が楽なんです」
私がそう答えると、男は少し感心したように頷いた。それだけのやり取りだったが、この世界で初めて、自分のやり方が誰かに認められたような気がして、悪くない気分だった。
ドブさらいの日当は、教員時代の給料に比べれば、話にならないほど僅かだった。それでも、毎日休まず働き続けるうちに、少しずつだが、金は貯まっていった。使い道もほとんどなかったから、貯まる一方だったとも言える。
一年近くが過ぎた頃、私はそれまで軒下や教会の隅を転々としていた寝床を、ようやく手放すことができた。街の外れにある厩舎の主人と顔見知りになり、空いている隅の一角を、格安で借りられることになったのだ。藁の匂いのする、馬と同じ屋根の下での暮らしだったが、それでも雨風をしのげる屋根があるというだけで、天と地ほどの違いがあった。
夜、馬の寝息を聞きながら藁の上に横たわると、私はよく、この一年のことを振り返った。荒野で目を覚ましたあの朝から、ここまで来るのに、どれほどの遠回りをしただろうか。剣も魔法も使えず、チートと呼べるようなものも何一つなく、ただ熊手を担いで、誰もやりたがらない仕事を、来る日も来る日も続けてきただけだった。
それでも、生きていた。言葉を持ち、寝床を持ち、わずかながら金も持っている。それだけのことが、この世界に来た当初は、想像すらできなかった。
教室を離れて、もうすぐ一年になる。私はまだ、自分がこの世界で何者にもなれていないことを知っていた。だが、少なくとも、生きていくための地力だけは、少しずつ、この身体に馴染み始めていた。




