# 第四十五話 継いでいくもの
あの夜から、ヨナは、授業のたびに、断片的に思い出す、故郷の記憶を、少しずつ、紙に書き留めるようになった。
村の周りにあった、大きな木の形。祭りの日に、皆で歌っていた、歌詞の断片。母親が作ってくれた、料理の匂い。文字にできるほど、明確な記憶は、多くはなかった。それでも、ヨナは、思い出すたびに、それを、一つずつ、丁寧に、書き記していった。
「情けねえ話だが、これっぽっちしか、思い出せねえんだ。」
ある日、ヨナは、書き留めた紙の束を、私に見せながら、そう漏らした。数枚に満たない、決して多くはない記録だった。
「それでも、これは、棟梁さんにしか、残せないものです」
私が、そう言うと、ヨナは、少し驚いたような顔をした。
「棟梁さんが、こうして書き残さなければ、その村があったことも、そこで暮らしていた人たちのことも、この世界から、跡形もなく、消えてしまいます。わずかでも、書き残せたことには、大きな意味があります」
ヨナは、しばらく、紙束を、じっと見つめていたが、やがて、意を決したように、頷いた。
「先生。頼みが、あるんだが」
「なんでしょう」
「今度、うちのギルドの若い連中にも、これを、見せてやりてえ。皆、似たような境遇で、故郷のことなんざ、まともに覚えちゃいねえ奴も多い。おれの記録を見せりゃ、あいつらも、何か、思い出すきっかけになるかもしれねえ」
その提案に、私は、深く、頷いた。
数日後、ヨナのギルドの作業場に、私も、招かれることになった。仕事終わりの職人たちが、車座になって座る中、ヨナは、書き留めた紙束を、皆の前に広げた。
「おれは、この歳になって、やっと、字を覚え始めた。それで、思い出せる限りの、故郷のことを、書き留めてみた」
ヨナは、たどたどしく、それでも、確かな声で、紙に書かれた記憶を、皆に語り聞かせた。若い職人たちは、最初こそ、戸惑ったような顔をしていたが、やがて、その一言一言に、真剣な表情で、耳を傾け始めた。
「俺も、村の名前だけは、なんとなく、覚えてる気がする」
一人の若者が、そう、ぽつりと呟いた。
「俺も、母親が、よく歌ってた歌を、少しだけ」
別の職人も、続けて、そう漏らした。
誰かが語り出した記憶の断片に、また別の誰かの、忘れかけていた記憶が、引き出されていく。作業場には、いつしか、それぞれの故郷の、断片的な記憶が、少しずつ、語られ、集まっていった。
私は、その光景を、少し離れた場所から、静かに見守っていた。文字を教えるという行為が、こんな形で、誰かの過去を、誰かの記憶を、繋ぎ止める助けになる。それは、私が、これまで、考えたこともなかった、文字の力だった。
その夜の集まりの後、ヨナは、私を拠点までおっくっていく道中、私に、こう言った。
「先生。胸の穴、完全に塞がったわけじゃ、ねえ。それでも、なんつうか、前より、ずっと、軽くなった気がするぜ」
ヨナは、夜空を見上げながら、続けた。
「一人で抱えてた記憶を、皆で、分け合えた。それだけで、こんなにも、違うもんなんだな」
私は、その言葉に、静かに、頷いた。
「これからも、少しずつ、書き留めていきましょう。棟梁さんの言葉が、いつか、ギルドの若い方々にとっても、大切な記録になっていくはずです」
「おう。任せとけ」
ヨナは、そう言って、豪快に笑った。その笑顔には、初めて出会った日と、変わらない明るさと、それでいて、以前にはなかった、どこか穏やかな落ち着きが、同時に、浮かんでいた。
それから、さらに、数ヶ月が経った、ある日のことだった。
ヨナが、拠点に、小さな女の子を抱いて、訪ねてきた。まだ、よちよち歩きの、あどけない子だった。
「センセイや皆に、見てもらいたくてな」
ヨナは、少し照れくさそうに、そう切り出すと、市場で、一生懸命に探し求めたという、一冊の絵本を、大事そうに取り出した。
「どうにか、読めるようには、なったんだが……いざとなると、緊張しちまってな。情けねえ話だ」
あれほど豪快だったヨナが、絵本一冊を前に、まるで、初めて舞台に上がる新米のように、そわそわと、落ち着かない様子を見せていた。私は、その姿に、思わず、笑みがこぼれた。
「大丈夫です。棟梁さんなら、できます」
私が、そう声をかけると、ヨナは、大きく息を吸い込み、意を決したように、絵本の表紙を、ゆっくりと開いた。
「むかしむかし、あるところに」
たどたどしくはあったが、その声は、確かに、物語を、紡いでいった。少女は、その声に、目を輝かせながら、じっと、絵本のページを見つめていた。
一冊を、読み終えたとき、孫が、無邪気な声で、こう言った。
「じいじ、もういっかい!」
ヨナは、涙をこらえるように、目を細めながら、もう一度、最初のページを、開き直した。
その光景を、少し離れた場所から見つめながら、私は、胸の奥に、静かな、温かいものが広がっていくのを感じていた。
教えるということは、時に、こんなにも、誰かの人生の、大切な一場面に、立ち会わせてもらえることなのだと、私は、改めて、思い知らされていた。




