# 第四十四話 書けない名前
ヨナが、拠点に通うようになってから、数週間が経った。
読み書きの合間、私は、ヨナの仕事にも役立つよう、簡単な計算も、併せて教えるようにしていた。契約書の額面を、自分の目で確かめられるように。若い職人たちを、悪徳な相手から、守れるように。
「この数と、この数を、こう並べて計算すると……」
私が、ヨナが作ってくれた黒板に、簡単な図を描きながら説明すると、ヨナは、節くれ立った指で、慎重に、同じ計算を、繰り返しなぞった。長年、鑿や槌を握ってきたその手は、細かい作業には、お世辞にも向いていなかったが、それでも、ヨナは、根気強く、何度も、同じ計算を、繰り返した。
「なるほどな。若え時分に、これを知ってりゃ、あの時、材木屋に、ふんだくられずに済んだのになあ」
ヨナは、そう言って、苦笑いを浮かべた。実際、ヨナの計算の飲み込みは、思っていたよりも早かった。長年、木材の寸法や、釘の本数を、頭の中で扱ってきた経験が、数字の扱いに、自然と、活きているようだった。
「棟梁さんは、数の扱いに、才があるようですね」
「そうかい? まあ、材木の切り出しなんざ、数え間違えたら、それで、木一本、無駄になるからな。嫌でも、頭に叩き込まれるもんだ」
文字の方も、着実に、上達していった。だが、ある日の授業で、私は、ヨナの手が、不意に、止まるのを見た。
「棟梁さん?」
声をかけると、ヨナは、我に返ったように、顔を上げた。
「いや、なんでもねえ。ちょいと、考えごとをな」
その日は、それ以上、深くは尋ねなかった。だが、次の授業でも、また、その次の授業でも、同じように、ヨナの手が止まる瞬間が、何度か、あった。
ある夜、いつものように、簡単な文章を、書き取る練習をしていたときだった。私は、練習として、身近な人の名前を、文字にしてみるよう、ヨナに勧めた。
「ギルドの若い衆の名前でも、なんでも構いません。書きやすい名前から、練習してみましょう」
ヨナは、少しの間、筆を握ったまま、動かなかった。それから、ぽつりと、こう漏らした。
「先生。おれの、故郷の村の名前を、書いてみても、いいか」
「もちろんです」
ヨナは、ゆっくりと、筆を、紙に走らせ始めた。だが、途中で、その手が、大きく震え始めた。
「くそ、思い出せねえ。あれだけ、毎日、聞いてた響きなのに」
ヨナの声には、これまで聞いたことのない、切迫したものが滲んでいた。
「村のみんなのことも、親父やおふくろの声も、もう、はっきりとは、思い出せねえんだ。餓鬼だったから、無理もねえ。だが、字を覚え始めてよ、いざ、書き残そうとすると、余計に、自分が何も、覚えちゃいねえってことに、気づかされちまってな」
筆を持つ手が、止まった。ヨナは、うつむいたまま、しばらく、動かなかった。
「胸に空いてた穴の正体、わかった気がするぜ、先生」
その声は、これまでの豪快さが嘘のように、小さく、震えていた。
「おれは、あの村のことを、誰にも、語り継げねえまま、生きてきちまった。文字が書けなかったから、覚えていたはずのことも、少しずつ、擦り切れちまった。もう、取り戻せねえのかもしれねえ」
私は、その言葉に、すぐには、何も返せなかった。ただ、ヨナの背に、そっと、手を置いた。
「取り戻せないものも、あるかもしれません。それでも」
私は、慎重に、言葉を選びながら、続けた。
「あなたは、忘れていません。今、覚えているだけの、断片でも構いません。少しずつ、書き留めていきませんか」
ヨナは、しばらく、黙っていた。それから、涙の滲んだ目で、小さく、頷いた。
「そうだな……せめて、忘れねえように、な」




