# 第四十三話 棟梁の頼み
寺子屋の噂が、王都の外にまで広まり始めた頃、拠点の門を、一人の男が、力強く叩いた。
「ごめんよ! ここに、変わった教え方をする先生がいるって聞いたんだが、あんたかい」
声からして、いきなり大きかった。振り返ると、日に焼けた顔に、白いものが混じった無精髭、そして、丸太のような太い腕をした男が、仁王立ちで立っていた。歳の頃は、五十を、いくらか過ぎているだろうか。
「私が、そうですが」
「おう、そうかい。おれは、ヨナってもんだ。この界隈じゃ、ちっとは名の知れた大工の棟梁でな」
ヨナは、そう言って、胸を張った。物腰は豪快で、江戸の職人と言われれば、そのまま信じてしまいそうな、歯切れの良い喋り方をする男だった。
「棟梁さんが、私に、どのようなご用件でしょうか」
「なあに、他でもねえ。おれに、字を教えてほしいんだ」
その申し出に、私は、少し驚いた。ヨナの様子からは、およそ、そうした頼み事とは無縁の、たくましさが漂っていた。
「差し支えなければ、ご事情を、伺ってもよろしいですか」
「差し支えなんざ、ねえよ。座って話すほどのことでもねえが、まあ、聞いてくれるか」
ヨナは、そう言って、拠点の階段に、どっかりと腰を下ろした。
「おれは、餓鬼の頃、故郷を失ってな。魔獣の群れに、村ごと、やられちまった。生き残ったのは、おれ一人だ」
その言葉は、あまりにあっさりと語られたので、私は、一瞬、聞き逃しそうになった。だが、ヨナの目の奥に、一瞬だけ、深い影が過ぎるのを、私は、見逃さなかった。
「それからは、まあ、なんでもやったよ。荷運び、掃除、穴掘り。選り好みしてる暇なんざ、なかったからな。そのうち、大工の見習いに拾われて、これが、性に合った。がむしゃらにやってるうちに、いつの間にか、自分のギルドを構えるまでになってた」
ヨナの語りには、苦労を苦労と感じさせない、独特の軽やかさがあった。それが、かえって、その半生の重さを、際立たせているようにも思えた。
「今じゃ、うちのギルドにゃ、十人からの職人がいる。皆、似たような境遇のやつらばかりだ。仕事にあぶれた奴、身寄りのねえ孤児。おれと同じで、字も読めねえのが、大半だ」
「棟梁さんが、皆さんを、支えていらっしゃるのですね」
「ガハハ!支えてる、なんて、大層なもんじゃねえよ。ただ、放っとけなかっただけだ。おれ自身、拾われた口だからな」
ヨナは、そう言って、豪快に笑った。だが、その笑顔の端に、ふと、拭いきれない何かが、滲んでいるのを、私は感じ取った。
「今の暮らしに、不満なんざ、これっぽっちもねえ。仕事も食うにも困らねえし、皆、いい奴らばかりだ。それでも」
ヨナは、そこで、言葉を切った。
「それでも、なんです?」
「うまく、言えねえんだが。ぽっかりと、胸のどっかに、穴が空いてるような、そんな感じが、ずっと、消えねえんだよ」
ヨナは、自分の胸を、ごつごつとした手で、軽く叩いた。
「字が読めりゃ、その穴が塞がるかどうかは、わからねえ。でもよ、うちの若え連中が、悪徳な奴らに、契約書一枚で、ふんだくられそうになるのを、何度も見てきた。おれが、字を読めりゃ、あいつらを、守ってやれる。それが、教えを乞う、一番の理由だ」
ヨナは、そこまで、一息に語ると、急に、居心地悪そうに、視線を逸らした。分厚い胸板をした男が、珍しく、もじもじと、指先を弄んでいる。
「それと……もう一つ、ある」
「なんでしょう」
「いや、こいつは、言うほどのことじゃ、ねえかもしれねえが」
ヨナは、しばらく、言い淀んでいたが、やがて、観念したように、小さな声で続けた。
「すまねえ、さっきのは言い訳だ。うちのギルドに、拾った時分から、うちの娘みてえに育てた小娘がいる。そいつが、去年、子を産んでな。おれにとっちゃ、初孫みてえなもんだ」
その声は、これまでの豪快さとは、まるで違う、柔らかいものに変わっていた。
「その子に、いつか、絵本の一冊でも、読んでやりてえと、思っちまってな。……歳もいって、今更、みっともねえとは、わかってるんだが」
豪快な物言いの奥に、ふと覗いた、その気弱さに、私は、少し、意外な思いを抱いた。歳を経て、多くの人間を束ねる棟梁という立場にありながら、ヨナは、自分の望みを語るとき、まるで、子供のように、恥じらいを見せていた。
「みっともないことなど、何もありません。学ぶのに遅すぎることはありません。決して」
私が、そう言うと、ヨナは、照れ隠しのように、大きな声で、笑ってみせた。
「よし、そうと決まりゃ、四の五の言ってねえで、さっさと教えてくれや!」
ヨナは、そう言って、日に焼けた顔に、笑みを浮かべた。だが、私の胸には、先ほどヨナが漏らした、あの一言が、静かに、残り続けていた。
――胸のどっかに、穴が空いてるような。
その正体が何なのか、私には、まだ、わからなかった。




