# 第三十二話 火のありか
罅の入った剣を抱えたまま、作業場に座り込んでいたマレアの前に、センセイが現れたのは、深夜近くのことだった。
噂は、もう届いていたのだろう。センセイは、何も言わず、ただ、私の隣に腰を下ろした。しばらくの間、二人とも、無言だった。
「聞いたか、もう」
マレアが、やっと絞り出した声は、情けないほど掠れていた。
「聞いた」
「理屈なんて、結局、私には、意味なかったのかも」
センセイは、それに、すぐには答えなかった。代わりに、罅の入った剣を、そっと手に取り、断面を、灯りにかざした。
「なあ、マレア。お前、あの検証のとき、色んな条件を変えて、記録を取ってたよな。あれ、まだ残ってるか」
「残ってる、けど……今更、見たところで」
半信半疑のまま、マレアは、作業場の隅にしまってあった、あの符丁だらけの紙束を、引っ張り出してきた。私は、鍛冶の目利きなど、到底できない。金属の色を見ただけで、状態を言い当てるような芸当は、私には逆立ちしても無理だった。だが、記録された数字と、条件の羅列を、順を追って読み解くことだけは、数少ない得意技の一つだった。
二人で、灯りを挟んで、紙を並べた。焼き戻しの温度、時間、その日の天候。マレア自身の手で、几帳面に書き留められた記録が、そこには、何十本分も並んでいた。
「この日と、この日を、比べてみてくれないか」
私は、記録の中から、似た条件でありながら、仕上がりに差が出ている二本を指差した。マレアは、しばらく、その数字を見比べていたが、やがて、あることに気づいたように、目を見開いた。
「気温が、違う……この日は、朝から冷え込んでたって、メモしてある」
「炉の中の温度は、色で見ていたんだよな。だとしたら、周りの気温が低い日は、同じ色に見えていても、実際の温度は、いつもより低かったんじゃないか」
マレアは、震える手で、紙をめくり直した。ゲイルに剣を渡した、あの日の記録を探し当てると、そこにも、同じように「朝から冷え込み」という走り書きが、残されていた。
「本当だ……この日も、寒かった」
その一致に、私自身、驚きを隠せなかった。私が見抜いたわけではなかった。答えは、最初から、マレア自身が書き残していた記録の中に、眠っていたのだった。
「硬さは保てても、粘り強さが、足りなかった。そこに、ゲイルの一撃の力が、集中した。震えのせいじゃない。周りの気温という、お前がまだ、計算に入れていなかった変数のせいだ」
その説明を聞きながら、マレアの中で、何かが、ゆっくりと、形を変えていくのを感じた。
「じゃあ……私の腕が、悪かったわけじゃ」
「悪かったのは、理屈が足りなかっただけだ。お前の手じゃない」
マレアは、しばらく、自分の書いた記録を、食い入るように見つめていたが、やがて、悔しそうに、ぽつりと呟いた。
「やっぱり、センセイは、すごいな」
その言葉に、私は、はっきりと、首を横に振った。
「俺は、何もしてない。ただ、お前が書き残した記録を、一緒に眺めただけだ。何十本も、条件を変えて打ち続けて、それを、一本残らず記録に取っていた。その根気がなければ、今、ここに、答えは出てこなかった」
「でも……」
「これは、俺の手柄じゃない。紛れもなく、お前自身の努力の結果だ」
マレアは、その言葉に、何も言い返せずにいた。ただ、涙の滲む目で、自分の書き残した、無数の記録を、もう一度、見つめ直していた。
その夜から、マレアは、もう一度、炉に向き合った。今度は、色だけでなく、周囲の気温という要素まで、記録に加えることにした。何度も、条件を変えて、同じ工程を繰り返し、焼き戻しの見極めを、より精緻なものへと、組み直していった。
一週間後、マレアは、打ち直した剣を持って、再び、ゲイルのもとを訪ねた。
「もう一度、機会をいただけませんか」
ゲイルは、少し驚いたような顔をしたが、それでも、頷いてくれた。
周囲には、あの日と同じように、何人かの職人たちが、様子を見に集まっていた。値踏みするような視線が、以前と変わらず、マレアに向けられていた。
ゲイルが、剣を構え、丸太に向けて、渾身の一撃を叩き込んだ。
乾いた音が、作業場に響いた。
剣は、丸太を、深く斬り裂いていた。
ゲイルは、しばらく、剣の刃を見つめていたが、やがて、静かに、そして、確かな声で言った。
「これは、俺のための剣だ」
周囲から、どよめきが起こった。先日、失笑していた職人たちの顔にも、今度は、隠しきれない驚きが浮かんでいた。
マレアは、その光景を見ながら、涙が止まらなくなっていた。悔しさとは、違う涙だった。




