# 第三話 値段のない男
街の門は、思っていたよりも簡単に通ることができた。
門番らしき男が二人、槍を持って立っていたが、私を一瞥しただけで、特に何を尋ねてくるでもなかった。あとになって知ったことだが、この街には、着の身着のままで流れ着く者が珍しくなかったらしい。戦乱の避難民、食い詰めた農民、素性を隠したい訳あり者。そういう人間が、日々どこからともなく流れてくる場所だった。私もまた、そのうちの一人として、疑われることすらなく、街の中に吸い込まれていった。
中に入って、まず圧倒されたのは音だった。石畳を踏む足音、荷車の軋み、呼び込みの声、聞いたことのない言語の応酬。三十を過ぎるまで、私は自分のことを、それなりに耳の良い人間だと思っていた。生徒のざわめきの中から、誰の声が本当に助けを求めているかを聞き分ける、そういう耳を持っているつもりだった。だが、意味のわからない言語の奔流の中では、その耳はまるで役に立たなかった。ただの雑音として、すべてが等しく私を素通りしていった。
空腹はもう限界に近かった。だが、金はなかった。物を売ろうにも、私が持っているものの中で価値がありそうなのは、財布くらいのものだったが、それを差し出したところで、誰にも通じない言葉で何を交渉すればいいのかもわからなかった。
結局、私がその日にできたことは、市場の裏手で、捨てられた野菜の切れ端を拾うことだけだった。教員という仕事について語るとき、私は時々「生徒の可能性を信じる仕事だ」というようなことを、それらしい顔で口にしていた。あの言葉を、今の自分に聞かせてやりたい気分だった。今の私に信じられる可能性といえば、明日も生きていられるかどうか、それだけだった。
夜は、路地裏の軒下で眠った。石畳の上に横たわると、身体の芯から冷えが這い上がってくる。眠っているのか、意識を失っているだけなのか、自分でもよくわからないような夜が、何日か続いた。
三日目の夜、雨が降った。私は屋根のある場所を求めて、街をさまよい歩いた。行き着いたのは、教会らしき建物の軒先だった。すでに数人の先客がいた。誰も何も言わなかった。彼らもまた、この街で値段のつかない人間たちなのだと、説明されなくてもわかった。
その中の一人、老人が、黙って私に、小さな布の切れ端を差し出した。雨よけにしろ、ということらしかった。私は頭を下げた。頭を下げるという行為だけは、どの世界でも共通の言葉として通じるらしかった。
雨の教会の軒下で、私はぼんやりと考えていた。この世界で、私という人間には、値段がついていない。値段がつくというのは、何かの役に立つということだ。剣が使えるとか、力があるとか、少なくとも言葉が通じるとか。私にはそのどれもなかった。
あるとすれば、それは「教える」という技術だった。だが、その技術は、教わる相手がいて初めて意味を持つ。生徒のいない教師は、ただの物知りに過ぎない。そして今の私には、言葉すら通じる相手がいなかった。
空腹と寒さの中で、私はふと、自分が、こんなにも「整えられた場所」に依存していたことに気づかされていた。教室があり、机があり、時間割があり、生徒がいる。そのすべてが揃って初めて、私という人間は機能した。何もない世界に放り出された今、私は驚くほど、ただの無力な生き物だった。
雨は、夜通し降り続いた。




