# 第二話 何もできないという事実
轍を辿って歩き続けて、二日が経った。
空腹はもう、痛みという段階を通り越して、ただの重い倦怠感になっていた。喉の渇きは川で凌げたが、食べるものは何もなかった。道の端に見慣れない実がなっているのを見つけたときは、さすがに手が伸びかけたが、思いとどまった。毒かもしれない。この世界の常識を、私はまだ何一つ持っていない。判断材料のない状況で賭けに出るというのは、教員という職業がもっとも苦手とする類の行為だった。石橋を叩いて渡る。叩いた末に、結局渡らないことも多い。それが、私という人間の性分だった。
三日目の昼過ぎ、轍が二本、合流する地点に差し掛かった。道の脇に、朽ちかけた木の看板が立っている。文字が彫られていたが、当然ながら読めなかった。ただ、矢印らしき形だけはわかった。人が通る場所には、矢印を彫るという発想がある。それだけでも、私には小さな安堵だった。少なくとも、ここには文明と呼べるものの痕跡がある。
矢印の方向へ歩き出してすぐ、草むらが不自然に揺れた。
振り返る間もなく、何かが飛び出してきた。犬ほどの大きさの、しかし犬ではない生き物だった。全身を覆う毛は針のように逆立ち、口からは、獣にしては不釣り合いなほど長い牙が覗いていた。
考えるより先に、身体が動いた。とはいえ、動いた先にあったのは勇気ではなく、単純な逃走だった。私は転げるように後ずさり、近くにあった太い木の裏に回り込んだ。心臓が、耳の奥で鳴っているのがわかるほどうるさかった。
木の陰から様子を窺うと、その生き物は、私が消えた方向をしばらく見つめていたが、やがて興味を失ったように、道を横切って茂みの向こうへ消えていった。
助かった。ただそれだけだった。戦って追い払ったわけでも、機転を利かせて撃退したわけでもない。ただ、逃げて、隠れて、相手が飽きるのを待った。それだけだ。
膝から力が抜けて、私はその場にしゃがみ込んだ。手のひらが震えていた。武器の一つも持っていない。仮に持っていたところで、使い方も知らない。体力もない。私の身体は、机に向かう仕事には十分でも、命のやり取りには何の役にも立たなかった。
教室の中でなら、私はどんな生徒よりも先が見えていた。誰が次に手を挙げるか、誰がつまずくか、誰が本当は助けを求めているのに黙っているか。そういうことなら、いくらでも見抜けた。だが、この世界における「危険」を前にしたとき、私はただの、何も持たない生き物だった。
しばらく動けずにいた。木の幹に背をあずけ、荒い息を整えながら、私はふと、自分の職業病のようなものに気づいた。恐怖が少し引いたあと、頭の中で自然と、今起きたことを整理し始めていたのだ。
あの生き物は、何に反応して飛び出してきたのか。足音か、匂いか、それとも道を歩く動きそのものにだったのか。逃げ込んだ木の裏という選択は、正しかったのか、それとも運が良かっただけなのか。次に同じ状況になったとき、何を変えれば生存率が上がるのか——。
考えている自分に、少し笑ってしまった。恐怖の直後から、頭の中で状況を整理し直している。生徒が聞いたら呆れるだろう。だが、この癖のおかげで、私はかろうじて、パニックの底に沈みきらずに済んでいるのかもしれなかった。
立ち上がり、震える足で、私はもう一度矢印の方向へ歩き出した。
日が傾き始めた頃、丘の向こうに、初めて人工の輪郭を見た。石造りの塀と、その内側に立ち並ぶ屋根の連なり。街だった。
安堵で、膝が笑った。だが同時に、新しい不安が湧いてくるのもわかった。あそこに辿り着いたところで、私には言葉がない。金もない。技術もない。あるのは、思考の癖と、答案用紙十七枚分の、採点されないままの仕事だけだった。




