# 第一話 目覚めの荒野
目が覚めたとき、最初に思ったのは「今日は何組の授業だったか」ということだった。
それくらい、切り替わりというものは唐突で、そして手続きを欠いていた。
瞼を開けると、空があった。ただし、見たことのある空ではなかった。青は青でも、記憶の中の青よりも一段階濃く、そこに滲むように薄紫が混ざっている。目を凝らすと、太陽とは別に、輪郭のはっきりしない光の塊が二つ、高い位置に並んで浮かんでいた。月だ、と気づくのに、しばらく時間がかかった。二つあるという事実よりも、私はまず、それが「月だと気づくまでに時間がかかった自分」に驚いていた。
身体を起こす。乾いた土と、丈の短い草。遠くに低い丘の連なりが見え、その向こうに、山とも呼べない灰色の塊が霞んでいる。人工物は、視界のどこにも見当たらなかった。
三十二年、そこそこ真面目に生きてきたつもりだった。教員としての十年目に差し掛かり、担任も三度目になり、ようやく仕事の輪郭が自分の身体に馴染んできたと思っていた矢先だった。記憶を辿っても、事故に遭った覚えも、病に倒れた覚えもない。ただ、ある夜、いつも通り採点をしながら眠りに落ち、次に瞼を開けたら、ここにいた。
最初にやったことは、笑うことだった。乾いた笑いだった。誰に見せるためでもない、状況を受け止めるための時間稼ぎとしての笑いだ。人間というのは、理不尽の規模が大きすぎると、恐怖より先に失笑が来るらしい。それは新しい発見だった。発見をしている場合ではなかったが。
水を探すことにした。これくらいは、テレビの知識でもわかる。低い方へ向かえば水がある。丘を下りながら、私は自分の荷物を確認した。財布、スマートフォン(電源は入らない)、鞄の中の生徒の答案用紙が数枚。何一つ、この世界では価値を持ちそうになかった。答案用紙だけは、なぜか妙に胸に刺さった。まだ採点していない答案が、あと十七枚あった。
半日ほど歩いて、小さな流れを見つけた。水を飲み、顔を洗い、ようやく人心地がついたところで、私は自分の置かれた状況を、できるだけ教員らしく整理してみることにした。頭の中で、考えを箇条書きに整理してみる。
一つ、ここがどこかはわからない。
二つ、言葉が通じるかどうかもわからない。
三つ、とにかく人のいる場所を探すしかない。
整理したところで、何も解決はしなかった。だが、少なくとも「わからないことをわからないままにしない」という態度だけは、この世界に来てもまだ、自分の中に残っていた。それが、ほんの少しだけ、心を支えてくれた。
二日目、遠くに獣の影を見た。犬にしては大きく、狼と呼ぶには輪郭が歪だった。四本の脚のほかに、背から突き出た二本の何か——角か、あるいは骨の突起か——が見えた。私はとっさに近くの岩陰に身を隠した。教員生活で培った危機察知能力といえば、廊下を走る生徒を注意するタイミングくらいのものだったが、それでも本能的に「あれは危険だ」という判断だけはできた。
獣は幸い、こちらに気づかず、丘の向こうへ消えていった。
助かった、と思うと同時に、私はひどく惨めな気持ちにもなった。もし気づかれていたら、私には何もできなかった。武器もなく、体力もなく、この世界の理を何一つ知らない。もし今ここで死ねば、誰にも気づかれることなく、ただ消えるだけだ。担任していたクラスの生徒たちは、次の学期には別の担任のもとで、何事もなかったかのように授業を受けるだろう。そのことを想像すると、恐怖よりも先に、ひどく静かな寂しさが胸に広がった。
三日目の朝、遠くに道らしきものを見つけた。轍の跡だ。人が通っている証拠だった。
私は迷わず、その轍を辿ることにした。空腹はすでに、耐えるという段階を超えて、身体の奥で鈍く痛み始めていた。それでも、歩くしかなかった。
歩きながら、私はふと、自分が今、生まれて初めて「何も教えられる立場にない」ということに気づいた。教室の中では、常に私が一番、状況を把握している人間だった。何が起きているか、次に何をすべきか、生徒より一歩先に見えていた。ここでは違う。私は轍という、たった一つの手がかりにすがって歩く、何も知らない生き物に過ぎなかった。
その事実は、思っていたよりずっと、身体に堪えた。




