62話 甘美な誘惑
テーブルに向かい合ったミリヤは、ほのかに頬を染め、はにかんだ。ディアナのお古を着ているのは相変わらずだが、今日は薄化粧をしている。シーマが訪れるのを期待していたのだと、うかがえた。
ディアナの服を着せるのは新しく作らせるより手間がかからないからだ。シーマはディアナに目を向けたことがなかったし、服装などいちいち覚えていない。嫌いな女の服だろうが、まったく気にならなかった。派手なドレスを着こなすミリヤに目尻を下げる。
補助的な部屋であるし、こぢんまりしていてテーブルも狭い。並べられた前菜と台車の上で待ち構えている料理は豪華なのにもかかわらず、家族の食卓のようだった。
「どうして、配膳人まで下げたのです?」
「必要ないからだ。俺は自分で料理を切り分けられるし、ワインを注ぐこともできる」
「雰囲気を大切にされたいのですね」
「そうだ。食事というのは個人的な領域だからね」
シーマは平然と給仕した。空になったグラスにワインを注ぎ、皿を下げ、肉を切り分け、パンを追加する。かいがいしさは朝食で慣らされているため、今さら驚かれなかった。朝食の時は晩餐ほど手間がかからない。
「小食なんだな? 俺はぶりっ子せずに、よく食べる女が好きだ」
「そんなことおっしゃって……わたしがガツガツ食べたら、下品な女だと貶されるのでしょう?」
「そんなこと言わないよ」
「いいえ、いつもそうです。意地悪ばかりおっしゃる」
「おまえが素直でないからだよ?」
「素直でないのはどちらでしょう?」
媚びることで機嫌を損なうと、ミリヤは数日で学んだ。賢い女だ。五年もわからなかったディアナに教えてやればよかったのにと思う。
「じつは手の付けていない食事というのは、毒見以外には食べたことがないのです。だから、変な感じがして……」
シーマが言い返さなかったので、ミリヤは取り繕おうとして本音を漏らした。
食前に一口毒見をする他は、主の残したものを食べる。侍女や侍従の食生活とはそういうものだ。自分のために用意された食事というのは、違和感があるのだろう。
「悪くはないだろう? こういう家庭的な食べ方も」
「ええ。慣れないだけです」
「じつは俺も慣れていない」
ミリヤは言葉の意図をつかめず、作り笑いする。シーマはあひるの丸焼きの腿の付け根にナイフを入れた。動物の解体の仕方を知っていれば、肉の切り分けは難なくできる。こういう知識は養父のジェラルド・シャルドンから学んだ。
「ディアナから俺の出自について、聞かされているだろう? 俺は偽物、本当は庶民出だって」
ミリヤは答えず、下を向いた。構わない。シーマは本当の自分を知ってもらいたいのだ。頭隠して尻隠さずをするぐらいなら、全部現してしまったほうがいい。
「半分当たってて、半分はハズレだ。庶民の生活は知っているよ。でも、俺の場合は特殊だった」
ここで注意。自分語りをする時はできる限り、短めにする。充分なインパクトを与えたら、それ以上の説明は蛇足だ。
「納屋に軟禁されて生活していたんでね。食事は一人だった。だから、家族の食卓を知らない」
シーマは自分と彼女の共通点を強調したかった。自らの力でどうにもできない生い立ちのせいで、自由を制限され、家族の温かみを知らずに育ってきた。わかり合うために共感性は重要だ。
シーマは言葉が沁みるのを待って、話題を変えた。
「丸一日、部屋に閉じ込めて悪かった。側近が部屋から出すなと、うるさいんだ」
「本がたくさんあって、退屈しませんでした」
朝食を共にとったあと、シーマは自分の寝室にミリヤを置き去りにしたのだった。塔に戻すのはやめて、ここで生活させてもいいかもしれない。
「本が好きか? 頭でっかちで減らず口を叩く女ができあがるわけだ」
「ほら、そうやって意地悪な物言いをされるでしょう?」
「何を読んだ? どれがおもしろかった?」
ミリヤが読んだのは、「魔法学の歴史」と「妖精族と魔法」の二冊だった。
「「妖精族と魔法」は実用書というよりか、学術書として体系的にまとめられていましたね。感覚で魔法を使っていたわたしには、少し難しかったです。歴史のほうはだいぶ歪曲されていました。魔法学は元来、アニュラスに根付いていた学問です。本には外海から来た人間が学問として確立したように書かれていますが、それは間違いですね」
「ほぅ。おまえから人間寄りではない意見が聞けるとはな?」
「間違いは間違いだから、そう申したまでです。第一、わたしは……」
ミリヤは言いかけて、やめた。
「おまえが前世で人間たちの魔法学の礎を築いた。そうだろ、エリス?」
前世の名を呼ばれ、ミリヤは表情を硬くした。
「隠し事はやめよう? エリス、俺はイシュマエルだよ」
「なんのことをおっしゃっているのか……わたしには前世の記憶はありません」
「いずれ思い出すさ」
不穏な空気が流れたのはそれぐらいで、あとは魔法学と科学の対立について論じたり、火薬の原料となる硝石の製造が下火となった理由について意見を出し合ったりした。
知的な会話ができるのはいいことだ。
女性は愛でるものだという認識が強く、シーマが恋人に教養を求めることはなかった。ミリヤは男のようなものの考え方をする。感情的ではなく理性的だ。
知的会話の合間に、パンでソースを拭う行儀の悪い食べ方を勧めて、そんなことは日常的にやっていると笑われた。ならば、ワインに発泡水を混ぜて、付け合わせのライムを絞るのはどうかとやってみせたところ、それは知らなかった、美味だとミリヤは喜んでくれた。
小さな積み重ねが愛を育む。
目を全開にして驚く顔も、ムスッとした顔も、照れ笑いも全部かわいかった。
デザートは寝室で食べるからと、持って来させることにした。氷菓はすぐに食べないと溶けてしまう。
待っている間、シーマはミリヤのつけ毛を取り、櫛を疏してやった。髪に触れる権利を持つのは、女中以外にシーマだけだ。短い髪に戻ったミリヤは少女のようになる。
服を脱がし、寝間着に着替えさせる。幼女が着せ替え人形で遊ぶ気持ちがわかる。施しは一種の娯楽である。小太郎に洗面器を持ってこさせて、化粧も落とさせた。晩餐のまえ、体は綺麗にしてある。
「では、わたしも……」と、ミリヤがシーマの着衣に手を伸ばしたところで、給仕人がデザートを持ってきたため、シーマは上衣だけ脱いでベッドに上がった。
「おいしくなる魔法をかけてあげよう」
戯れは人生を豊かにする。親しい者とのじゃれ合いは心の運動だ。ふざけた言葉はミリヤの失笑を買ったが、これは素敵なことなのである。
脇机の引き出しを開け、小瓶を取り出す。中には高価な香辛料が入っている。銀の器に盛られた乳白色の氷菓に、それをパッパッと振りかけた。
「さあ、食べてごらん」
たいして味が変わるわけでもない。気分の問題だ。味覚なんてものは心持ちで変化する。
ミリヤは氷菓を口に入れ、子供みたいな笑顔を見せた。
「ピリッとして、いい香りがします!」
「かけ過ぎてはいけないよ。多いと毒になる」
ドキッとさせることを言い、すかさず甘い唇を奪った。
甘い、甘すぎる。もっと香辛料をかけるべきだった。辛みは痛みだ。もう少しだけ量が多かったら、痛みが正気を取り戻させ、デザートの続きを楽しむことができただろう。残念ながら、甘みが勝ってしまった。
氷菓が解けてしまう……熱を帯びた舌がより強い刺激を求め、甘美な誘惑に負けた。




