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ドーナツ穴から虫食い穴を通って魔人はやってくる  作者: 黄札
第五部 戦わない戦い(前編)三章 シーマ
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63話 花の値段

 正体がバレたあの日以来、シーマはミリヤと寝ていなかった。

 傷つけるのが怖かったし、言葉を交わす、食事をする、庭内を散歩する……そういう優しい触れ合いが楽しかったのだ。欲望を満たすだけが愛ではない。友人や家族のような交流は心を安らかにする。


 ところが、甘すぎる氷菓が本能に火を付けてしまった。


 ──おまえがほしい


 ミリヤの口で溶けた氷菓の残り香を味わったあと、見つめ合った。察したミリヤは視線を離さない。拷問吏が琥珀色の目を潰さなくてよかったと、シーマは心から神に感謝した。神に感謝するなんて、生まれて初めてかもしれない。

 整っているのに、彼女の顔には尖ったところがなかった。顎も鼻も唇も、目も眉も丸みを帯びている。美しいだけでなく、かわいらしいのはそれが理由だった。彼女の他に完璧な美が世界にあるだろうか。アニュラス(いち)と言っても過言ではない。


 適した言葉は?

 愛している。

 美しい。

 大好きだ。

 正直に「ほしい」と言うべきか。

 シーマはミリヤの言う通り、意地悪なひねくれ者だった。出てきた言葉は、


「おまえはいくらだ?」


 愛する女に放つ言葉ではなかった。依然としてミリヤは仇であり、恋人としての恩恵を与えたくないのだった。

 普通の女だったら、侮辱されたと捉えただろう。だが、ミリヤは動じなければ、怒りもしなかった。熱っぽい目を向けたまま答える。


「花ほどの値段かと」

「さぞ、高価な花なのだろうな?」

「値段をおつけになるのは陛下ですよ」

「道端に咲くリコリスと同じと言ったら?」

「リコリスには毒があります」


 毒か。いやに中毒性のある毒だ。依存性も高い。


「演技をする女は嫌いだ」

「存じております」

「喘ぎ声を作り出す女は娼婦と同じだ」

「体を張って金を稼ぐ女を悪くおっしゃるのは、よろしくないかと。わたしは娼婦と同様に捉えられることを、恥とは思いません」


 ミリヤはやはり戦士だった。男をたぶらかすことは戦いの一部で、自分のためにすることではない。本気で男を愛したことがないのだろう。そういう意味では処女と同じと言える。


「憐れな女」

「憐れみは蔑みと同義です」

「おまえの心が安らぐことは、未来永劫ないだろう」

「それは陛下も同じでは?」


 しゃべりながら、ミリヤはシーマのチュニックの紐を緩めた。会話の合間に唇を重ねる。


「俺がいない間、部屋で何をしていた? まさか、本を読んでいただけではあるまい」

「そうですね。脇机、文机、戸棚の引き出しを洗いざらい調べ上げ、ベッドの下から本棚の裏に至るまで、目を皿のようにして情報を探しました」

「収穫はあったか?」

「はい。手帳にイアン・ローズが瀝青城にいると書かれてありました」


 正直なのはよろしい。ミリヤはシオンの情報をもっと、ほしいのかもしれなかった。

 言葉が途切れるころには、シーマはほぼ半裸状態になっていた。壁にかけた燭台を消し、ランタンの灯りだけにする。ミリヤに脱げと命じた。


 なんのために着替えさせたのかと問われれば、脱がすためだと即答する。ミリヤは両手を交差させ、簡易なネグリジェをまくり上げた。

 裸にするのは、美を堪能したいからではない。傷痕の痛ましい体は罪悪感を和らげる。

 舌を這わせながらシーマは、ヴィナスの遺品や文を見られただろうかと勘ぐった。前回とは異なり、割れ物を扱うように、おそるおそる彼女に触れた。


「怖がりは嫌いです」

「おまえはすぐに壊れる」

「そんなにヤワじゃありません」

「分不相応に愛されたいか?」


 ミリヤは止まった。


「いいえ。互いに快楽を(むさぼ)るだけで良いのではないですか?」


 悲しいことを言う。


「あなたはわたしを愛したくない。わたしもあなたを愛したくない」

「どうして愛したくないのだ?」

「主を裏切ることになるからです」


 皆まで言わせるなと、ミリヤはしかめっ面になった。

 彼女の言うことは正しい。しかし、シーマの本心は愛したいし愛されたい。望みが叶うなら死んだっていい──そこまで考えて、いいことを思いついた。


「ミリヤ、俺と勝負しないか?」


 ミリヤは小首をかしげる。一挙手一投足が愛らしいのは言うまでもない。


「おまえは毒花。俺を惚れさせることができたら、命を奪ってもいい。その代わり、おまえが惚れたら、永遠に俺のものになれ」


 ミリヤは返事の代わりにキスで答えた。冗談と思われたのかもしれないが、シーマは本気だった。

 仇を愛することはヴィナスへの裏切り行為だ。死んでもいいぐらいの重罪である。だから、この女と愛し合うのなら死を覚悟する。そう決めたことで気持ちが楽になった。


 今日のミリヤは娼婦の真似事をしなかった。シーマにしてほしいことを聞き、それを実践する。シーマは女の動作をミラーリングした

 盤上ゲームではよく行なわれる手法だ。相手の動きを真似て、五分の戦いに持ち込む。定跡を知らずとも、序盤はこれでうまくいく。


「優しい男には魅力がありません」

 ミリヤは煽ってくる。


「冷たい女は孤独だろう」

 シーマは煽り返した。


「あなたの熱で温めてと言ったら?」

「おまえの中は煮えたぎっているじゃないか」


 女は熱いし柔らかい。気持ちがいい。

 性行為というものは、こんなにも没頭してしまうものだったのか。今まで経験してきたものがお遊びに思えてくる。異常だ。

 シーマは我を忘れそうになった。女の心に呑み込まれ、自我が溶けてしまった時点で負けとなる。毒花を買えなかった負け犬は喉笛を掻っ切られる。

 艶声を響かせるミリヤが憎らしかった。自分を狂わせる女が忌まわしい。絶頂への道を無我夢中で走るしかなくなってしまう。


 ──もういい。俺の負けだ。


 そう思った瞬間、快楽の波が押し寄せ、ミリヤが肩に噛みついてきた。座った状態のシーマにミリヤが抱きついており、身長差があるため、ちょうど肩の位置にミリヤの顔があったのだ。

 頭の中が真っ白になった。痛みはあとからやって来る。シーマは恥ずかしい声を漏らしてしまったかもしれなかった。

 男女が逆転しているではないか。悪女に心も体も蹂躙されている。

 ミリヤが口を離すと、黒く血がにじんでいた。

 力尽きたシーマはミリヤの口を吸い、余韻に浸った。


「乱暴な女だ」

 と伝えたところ、


「本気にさせたのがいけません」

 と言い返される。


 シーマは目を閉じ、襲いかかる睡魔に身を任せた。完全なる無防備だ。生殺与奪権はミリヤに握られた。彼女になら殺されてもいい──




 深い眠りに落ち、また浅いところに浮上する。何時間経過したのだろう。ランタンのオイルがなくなってきて、室内は暗くなっている。シーマはまだ生きていた。

 ぼんやりした意識のなか、温もりが消えているのに気づく。闇色の影が動いていた。


 影はベッドの端へと移動した。脇机の引き出しを開ける摩擦音が微かに聞こえてくる。

 引き出しには大切な物が閉まってある。もともとはヴィナスが身に付けていた英雄の剣を象ったお守り。シオンと交換した物だ。他には……


 背中に冷たい汗がにじむ。

 影が取り上げたのはお守りではなく、文の封を切ったり、果物を食べたりする時に使うダガーだった。シーマは薄目を開け、光る物を確認した。


 ダガーを持ったミリヤが近づいてくるのに動けない。金縛りにあったかのごとく、身じろぎできなかった。

 逆光でミリヤの表情は見えない。すさまじい殺気がシーマをがんじがらめにした。影の正体はかわいい女ではなく、本物の暗殺者なのではないかと思い、寒気を覚える。

 眠りに落ちるまえ、死んでもいいと思っていたのが一転、シーマは恐怖におののいていた。単に怖くて動けなかったのである。情けないことに、殺さないでくれと念じてもいた。

 ミリヤが自分の上にまたがり、ダガーを振り上げた時はギュッと目をつぶり、体中の筋肉を強張(こわば)らせたのだ。


 ──殺される


 愚かでみっともない死に様だ。あの世でヴィナスに会っても、許してもらえないだろう。王になって、やってきたことは水泡に帰した。がんばってきたことが、何もかも無駄になってしまった。

 これまでの人生が脳内で再生される。

 納屋で隠し育てられた少年時代。脱走しては尻を叩かれていた。白い肌と銀髪は化け物だと蔑まれ、家族からは厄介者だと嫌悪された。シーマの主な仕事は蚕棚に載せられた蚕の飼育だ。学校へは行かせてもらえなかった。リリエが持ってきた本で読み書きを覚えたのである。

 最も苦痛だったのは繭の選別作業だった。一日中、白い繭だけを見て、上、並、捨てるの三種に分ける。指先でも良し悪しを感じ取った。捨てる繭の中にいる(さなぎ)は貴重な栄養源だ。ただし、悪い繭を作る蛹はたいてい病気持ちで変な味がした。


 貴族に成りすましてからも、壁に囲われた生活は変わらない。髪を黒くし、本当の自分を隠さねばならなかった。大勢の仲間を引き連れた微笑みの貴公子は、独りぼっちだったのだ。本音を話せるのはペペ──ユゼフ・ヴァルタンだけ。

 しょせんは忌み子。ババアの言いつけを守って、納屋から出るべきではなかった──




 女がダガーを落とすとは思わなかった。シーマは仰向けから動けず、呆然とした。

 ミリヤは背を向け、肩を震わせている。ときおり声を漏らし、苦しそうに息をしていた。

 たぶん、冷酷な彼女が使命を放棄せざるを得ない出来事があったのだ。シーマの知らない水面下で何かが起こっていた。

 ややあってシーマは起き上がり、ミリヤの両腕をつかんだ。


「どうして、殺さなかったのだ?」

「あんたが憎い!」

「憎いなら殺せばいい」

「亜人野郎め!」


 ミリヤはシーマを罵倒した。ヘリオーティスらしく口汚い言葉を吐いた。彼女の醜悪な面を見ることで、シーマは落ち着きを取り戻した。


「おまえが勝った」

「わたしは負けたよ、負けたんだよ、イシュマエル……」


 ミリヤはつぶやいて、一筋の涙を落とした。彼女の苦痛が自分の中に入り込んでくる。シーマは脱力するミリヤを抱きとめた。

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― 新着の感想 ―
シーマ……(ノ∀`) 言わんこっちゃない、と思ったけど、なんだかんだ丸く収まった……? 色々あったけど、シーマだけじゃなくて、向こうも本気になったと思っていいのかな(*´ェ`*) シーマはけっこう重要…
えぇんやで……2人共、それでえぇんやで。 お互い、色んな葛藤があるかもしれないですが。 それを加味した上で、相手の事を思う気持ちが上回ったのであれば、もう自分に正直に成ってえぇんやで。 折角の切欠な…
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