63話 花の値段
正体がバレたあの日以来、シーマはミリヤと寝ていなかった。
傷つけるのが怖かったし、言葉を交わす、食事をする、庭内を散歩する……そういう優しい触れ合いが楽しかったのだ。欲望を満たすだけが愛ではない。友人や家族のような交流は心を安らかにする。
ところが、甘すぎる氷菓が本能に火を付けてしまった。
──おまえがほしい
ミリヤの口で溶けた氷菓の残り香を味わったあと、見つめ合った。察したミリヤは視線を離さない。拷問吏が琥珀色の目を潰さなくてよかったと、シーマは心から神に感謝した。神に感謝するなんて、生まれて初めてかもしれない。
整っているのに、彼女の顔には尖ったところがなかった。顎も鼻も唇も、目も眉も丸みを帯びている。美しいだけでなく、かわいらしいのはそれが理由だった。彼女の他に完璧な美が世界にあるだろうか。アニュラス一と言っても過言ではない。
適した言葉は?
愛している。
美しい。
大好きだ。
正直に「ほしい」と言うべきか。
シーマはミリヤの言う通り、意地悪なひねくれ者だった。出てきた言葉は、
「おまえはいくらだ?」
愛する女に放つ言葉ではなかった。依然としてミリヤは仇であり、恋人としての恩恵を与えたくないのだった。
普通の女だったら、侮辱されたと捉えただろう。だが、ミリヤは動じなければ、怒りもしなかった。熱っぽい目を向けたまま答える。
「花ほどの値段かと」
「さぞ、高価な花なのだろうな?」
「値段をおつけになるのは陛下ですよ」
「道端に咲くリコリスと同じと言ったら?」
「リコリスには毒があります」
毒か。いやに中毒性のある毒だ。依存性も高い。
「演技をする女は嫌いだ」
「存じております」
「喘ぎ声を作り出す女は娼婦と同じだ」
「体を張って金を稼ぐ女を悪くおっしゃるのは、よろしくないかと。わたしは娼婦と同様に捉えられることを、恥とは思いません」
ミリヤはやはり戦士だった。男をたぶらかすことは戦いの一部で、自分のためにすることではない。本気で男を愛したことがないのだろう。そういう意味では処女と同じと言える。
「憐れな女」
「憐れみは蔑みと同義です」
「おまえの心が安らぐことは、未来永劫ないだろう」
「それは陛下も同じでは?」
しゃべりながら、ミリヤはシーマのチュニックの紐を緩めた。会話の合間に唇を重ねる。
「俺がいない間、部屋で何をしていた? まさか、本を読んでいただけではあるまい」
「そうですね。脇机、文机、戸棚の引き出しを洗いざらい調べ上げ、ベッドの下から本棚の裏に至るまで、目を皿のようにして情報を探しました」
「収穫はあったか?」
「はい。手帳にイアン・ローズが瀝青城にいると書かれてありました」
正直なのはよろしい。ミリヤはシオンの情報をもっと、ほしいのかもしれなかった。
言葉が途切れるころには、シーマはほぼ半裸状態になっていた。壁にかけた燭台を消し、ランタンの灯りだけにする。ミリヤに脱げと命じた。
なんのために着替えさせたのかと問われれば、脱がすためだと即答する。ミリヤは両手を交差させ、簡易なネグリジェをまくり上げた。
裸にするのは、美を堪能したいからではない。傷痕の痛ましい体は罪悪感を和らげる。
舌を這わせながらシーマは、ヴィナスの遺品や文を見られただろうかと勘ぐった。前回とは異なり、割れ物を扱うように、おそるおそる彼女に触れた。
「怖がりは嫌いです」
「おまえはすぐに壊れる」
「そんなにヤワじゃありません」
「分不相応に愛されたいか?」
ミリヤは止まった。
「いいえ。互いに快楽を貪るだけで良いのではないですか?」
悲しいことを言う。
「あなたはわたしを愛したくない。わたしもあなたを愛したくない」
「どうして愛したくないのだ?」
「主を裏切ることになるからです」
皆まで言わせるなと、ミリヤはしかめっ面になった。
彼女の言うことは正しい。しかし、シーマの本心は愛したいし愛されたい。望みが叶うなら死んだっていい──そこまで考えて、いいことを思いついた。
「ミリヤ、俺と勝負しないか?」
ミリヤは小首をかしげる。一挙手一投足が愛らしいのは言うまでもない。
「おまえは毒花。俺を惚れさせることができたら、命を奪ってもいい。その代わり、おまえが惚れたら、永遠に俺のものになれ」
ミリヤは返事の代わりにキスで答えた。冗談と思われたのかもしれないが、シーマは本気だった。
仇を愛することはヴィナスへの裏切り行為だ。死んでもいいぐらいの重罪である。だから、この女と愛し合うのなら死を覚悟する。そう決めたことで気持ちが楽になった。
今日のミリヤは娼婦の真似事をしなかった。シーマにしてほしいことを聞き、それを実践する。シーマは女の動作をミラーリングした
盤上ゲームではよく行なわれる手法だ。相手の動きを真似て、五分の戦いに持ち込む。定跡を知らずとも、序盤はこれでうまくいく。
「優しい男には魅力がありません」
ミリヤは煽ってくる。
「冷たい女は孤独だろう」
シーマは煽り返した。
「あなたの熱で温めてと言ったら?」
「おまえの中は煮えたぎっているじゃないか」
女は熱いし柔らかい。気持ちがいい。
性行為というものは、こんなにも没頭してしまうものだったのか。今まで経験してきたものがお遊びに思えてくる。異常だ。
シーマは我を忘れそうになった。女の心に呑み込まれ、自我が溶けてしまった時点で負けとなる。毒花を買えなかった負け犬は喉笛を掻っ切られる。
艶声を響かせるミリヤが憎らしかった。自分を狂わせる女が忌まわしい。絶頂への道を無我夢中で走るしかなくなってしまう。
──もういい。俺の負けだ。
そう思った瞬間、快楽の波が押し寄せ、ミリヤが肩に噛みついてきた。座った状態のシーマにミリヤが抱きついており、身長差があるため、ちょうど肩の位置にミリヤの顔があったのだ。
頭の中が真っ白になった。痛みはあとからやって来る。シーマは恥ずかしい声を漏らしてしまったかもしれなかった。
男女が逆転しているではないか。悪女に心も体も蹂躙されている。
ミリヤが口を離すと、黒く血がにじんでいた。
力尽きたシーマはミリヤの口を吸い、余韻に浸った。
「乱暴な女だ」
と伝えたところ、
「本気にさせたのがいけません」
と言い返される。
シーマは目を閉じ、襲いかかる睡魔に身を任せた。完全なる無防備だ。生殺与奪権はミリヤに握られた。彼女になら殺されてもいい──
深い眠りに落ち、また浅いところに浮上する。何時間経過したのだろう。ランタンのオイルがなくなってきて、室内は暗くなっている。シーマはまだ生きていた。
ぼんやりした意識のなか、温もりが消えているのに気づく。闇色の影が動いていた。
影はベッドの端へと移動した。脇机の引き出しを開ける摩擦音が微かに聞こえてくる。
引き出しには大切な物が閉まってある。もともとはヴィナスが身に付けていた英雄の剣を象ったお守り。シオンと交換した物だ。他には……
背中に冷たい汗がにじむ。
影が取り上げたのはお守りではなく、文の封を切ったり、果物を食べたりする時に使うダガーだった。シーマは薄目を開け、光る物を確認した。
ダガーを持ったミリヤが近づいてくるのに動けない。金縛りにあったかのごとく、身じろぎできなかった。
逆光でミリヤの表情は見えない。すさまじい殺気がシーマをがんじがらめにした。影の正体はかわいい女ではなく、本物の暗殺者なのではないかと思い、寒気を覚える。
眠りに落ちるまえ、死んでもいいと思っていたのが一転、シーマは恐怖におののいていた。単に怖くて動けなかったのである。情けないことに、殺さないでくれと念じてもいた。
ミリヤが自分の上にまたがり、ダガーを振り上げた時はギュッと目をつぶり、体中の筋肉を強張らせたのだ。
──殺される
愚かでみっともない死に様だ。あの世でヴィナスに会っても、許してもらえないだろう。王になって、やってきたことは水泡に帰した。がんばってきたことが、何もかも無駄になってしまった。
これまでの人生が脳内で再生される。
納屋で隠し育てられた少年時代。脱走しては尻を叩かれていた。白い肌と銀髪は化け物だと蔑まれ、家族からは厄介者だと嫌悪された。シーマの主な仕事は蚕棚に載せられた蚕の飼育だ。学校へは行かせてもらえなかった。リリエが持ってきた本で読み書きを覚えたのである。
最も苦痛だったのは繭の選別作業だった。一日中、白い繭だけを見て、上、並、捨てるの三種に分ける。指先でも良し悪しを感じ取った。捨てる繭の中にいる蛹は貴重な栄養源だ。ただし、悪い繭を作る蛹はたいてい病気持ちで変な味がした。
貴族に成りすましてからも、壁に囲われた生活は変わらない。髪を黒くし、本当の自分を隠さねばならなかった。大勢の仲間を引き連れた微笑みの貴公子は、独りぼっちだったのだ。本音を話せるのはペペ──ユゼフ・ヴァルタンだけ。
しょせんは忌み子。ババアの言いつけを守って、納屋から出るべきではなかった──
女がダガーを落とすとは思わなかった。シーマは仰向けから動けず、呆然とした。
ミリヤは背を向け、肩を震わせている。ときおり声を漏らし、苦しそうに息をしていた。
たぶん、冷酷な彼女が使命を放棄せざるを得ない出来事があったのだ。シーマの知らない水面下で何かが起こっていた。
ややあってシーマは起き上がり、ミリヤの両腕をつかんだ。
「どうして、殺さなかったのだ?」
「あんたが憎い!」
「憎いなら殺せばいい」
「亜人野郎め!」
ミリヤはシーマを罵倒した。ヘリオーティスらしく口汚い言葉を吐いた。彼女の醜悪な面を見ることで、シーマは落ち着きを取り戻した。
「おまえが勝った」
「わたしは負けたよ、負けたんだよ、イシュマエル……」
ミリヤはつぶやいて、一筋の涙を落とした。彼女の苦痛が自分の中に入り込んでくる。シーマは脱力するミリヤを抱きとめた。




