遠山・7
「おれには、母さんがほんとうにいたのかな?」
「そりゃ、いるだろ」
「……ふうん……」
さして興味なさそうにソファーに座って数秒、立ち上がって、エ霞を見上げた。
「じゃあ、なんで覚えていないんだろう?」
「さあねぇ。そういう場合もあるだろ?」
「そっか……」
ならいいや、とあいまいに頷き、休憩室から出る。
工事中の音を聞くたびに、自責の念にかられてゆく。
ぜんぶが、自分のせいだ。
それを忘れてはいけない。
「おっ!」
琳たちがいる4階に上ろうとしたとき、男2人が真たちを見つけ、声をかけてきた。
どこかで見たことがあると思ったら、この間、雪輪と雪華のところへ向かう途中、檄を飛ばしてくれた人たちだ。
茶色の髪と、黒色の髪をした、対照的な2人は、笑顔で駆けてくる。
「無事だったみたいだな、お2人さん」
「ああ、まあ、籬は左足やられちまったが、俺のほうは何とかな」
「知り合い?」
エ霞は片目を瞑ってウインクをした。
たぶん、仲がいいのだろう。
「まあ、当分五室も襲ってはこないだろうからさ。どうよ、飲みに行かねぇ?」
「大江、未成年誘うんじゃねぇよ。琳に絞られんぞ」
黒髪の大江という男の顔がわずかに引きつる。
「え、あー。それはいやだなあ。……ハハハ」
「…ん?真、どうした」
「居酒屋、行くの?」
行った事がない真にとって、『居酒屋』は未知の場所だ。
そもそも、家の外で食事をすることは今までなかったのだから。
「何だ。おまえ、行きたいのか?居酒屋」
「おれ、外食とかしたことないから。どんなところなのかなって」
「おい、佐々木。聞いたか?これは……行くしかないよな!」
「おう。行くしかねぇな!」
「?」
大江と佐々木は、にやにやと笑い始めて、真を見下ろした。
「行こうぜ、居酒屋。今時、子供連れで居酒屋入るのも、珍しくないだろ?なあ、大江」
「いいの!?」
「おー、いい……ぜ……」
真っ黒な影。
それを見て、大江と佐々木が固まる。
「・・・」
エ霞は手で顔を覆い、真は驚いたように目を見開いた。
「兄さん!」
「子供を連れて、居酒屋と来ましたか」
「……う……」
サングラスの奥の目は、笑っていない。
じっと、大江と佐々木を見据えている。
「ほ、ほら、琳。佐々木と大江も良かれと思ってだな」
「だめ?」
琳はため息を吐き出して、真の頭をそっと撫でた。
「……まあ、いいでしょう。五室も、まだ手を出せない状態にあると言っても過言ではありません」
「本当!?やった!」
男2人は、大げさに安堵のため息を吐き出して、真と打ち合わせを始めた。
「甘いねぇ。琳」
「……甘い甘くないの問題ではありませんよ。真は、これまで外食をすることもありませんでしたから。勉強にもなるでしょう」
「へえ。勉強ね。ま、そういうことにしておきますか」
「何か言いたそうですね。エ霞君」
エ霞は意味ありげに片方の口端を上げて、もじゃもじゃの髪の毛を掻く。
琳の視線にも怯まずに、猩々緋の羽織の襟を直しながら、「いやあ」とあいまいに呟いた。
「琳、おまえさ、真が大事で大事で仕方がないんだろ?」
「そうですね。弟ですから」
「……ふぅん。まあ、いいけどさ」
羽織の袖がひらりと舞って、真の隣に立つエ霞を見据える。
「・・・」
見えぬ目。
それを嘆いた事はない。なぜなら、自分の力不足で遺物に奪われたからだ。
ただ、
ただ。
叶うのならば、彼の――真の顔を、もう一度見てみたい。
「兄さん?」
「あ、ああ、何でしょうか」
「あのね、今日、六時からだって」
「今日、ですか。急ですね」
尤も、用事も何も、高校教師と言う職を捨てたようなものなのだから、今更用事があるわけでもない。
「分かりました。百合子さんたちも行くのでしょう?」
「そうみたい。佐々木さんたちがね、誘おうって」
「そうですか。随分、賑やかになりますね」
「うん!すごく、たのしみ」
笑っている。
(どこか、純粋に喜べない自分がいるのは、何故だろうか。)
いいことだ。
(真が、日常に溶け込む事は。)
――だが
(己の手のなかで、)




