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Vanitas vanitatum  作者: イヲ
第九章
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遠山・7

「おれには、母さんがほんとうにいたのかな?」

「そりゃ、いるだろ」

「……ふうん……」


さして興味なさそうにソファーに座って数秒、立ち上がって、エ霞を見上げた。


「じゃあ、なんで覚えていないんだろう?」

「さあねぇ。そういう場合もあるだろ?」

「そっか……」


ならいいや、とあいまいに頷き、休憩室から出る。

工事中の音を聞くたびに、自責の念にかられてゆく。

ぜんぶが、自分のせいだ。

それを忘れてはいけない。


「おっ!」


琳たちがいる4階に上ろうとしたとき、男2人が真たちを見つけ、声をかけてきた。

どこかで見たことがあると思ったら、この間、雪輪と雪華のところへ向かう途中、檄を飛ばしてくれた人たちだ。

茶色の髪と、黒色の髪をした、対照的な2人は、笑顔で駆けてくる。


「無事だったみたいだな、お2人さん」

「ああ、まあ、籬は左足やられちまったが、俺のほうは何とかな」

「知り合い?」


エ霞は片目を瞑ってウインクをした。

たぶん、仲がいいのだろう。


「まあ、当分五室も襲ってはこないだろうからさ。どうよ、飲みに行かねぇ?」

「大江、未成年誘うんじゃねぇよ。琳に絞られんぞ」


黒髪の大江という男の顔がわずかに引きつる。


「え、あー。それはいやだなあ。……ハハハ」

「…ん?真、どうした」

「居酒屋、行くの?」


行った事がない真にとって、『居酒屋』は未知の場所だ。

そもそも、家の外で食事をすることは今までなかったのだから。


「何だ。おまえ、行きたいのか?居酒屋」

「おれ、外食とかしたことないから。どんなところなのかなって」

「おい、佐々木。聞いたか?これは……行くしかないよな!」

「おう。行くしかねぇな!」

「?」


大江と佐々木は、にやにやと笑い始めて、真を見下ろした。


「行こうぜ、居酒屋。今時、子供連れで居酒屋入るのも、珍しくないだろ?なあ、大江」

「いいの!?」

「おー、いい……ぜ……」


真っ黒な影。

それを見て、大江と佐々木が固まる。


「・・・」


エ霞は手で顔を覆い、真は驚いたように目を見開いた。


「兄さん!」

「子供を連れて、居酒屋と来ましたか」

「……う……」


サングラスの奥の目は、笑っていない。

じっと、大江と佐々木を見据えている。


「ほ、ほら、琳。佐々木と大江も良かれと思ってだな」

「だめ?」


琳はため息を吐き出して、真の頭をそっと撫でた。


「……まあ、いいでしょう。五室も、まだ手を出せない状態にあると言っても過言ではありません」

「本当!?やった!」


男2人は、大げさに安堵のため息を吐き出して、真と打ち合わせを始めた。


「甘いねぇ。琳」

「……甘い甘くないの問題ではありませんよ。真は、これまで外食をすることもありませんでしたから。勉強にもなるでしょう」

「へえ。勉強(・・)ね。ま、そういうことにしておきますか」

「何か言いたそうですね。エ霞君」


エ霞は意味ありげに片方の口端を上げて、もじゃもじゃの髪の毛を掻く。

琳の視線にも怯まずに、猩々緋の羽織の襟を直しながら、「いやあ」とあいまいに呟いた。


「琳、おまえさ、真が大事で大事で仕方がないんだろ?」

「そうですね。弟ですから」

「……ふぅん。まあ、いいけどさ」


羽織の袖がひらりと舞って、真の隣に立つエ霞を見据える。


「・・・」


見えぬ目。

それを嘆いた事はない。なぜなら、自分の力不足で遺物に奪われたからだ。

ただ、

ただ。

叶うのならば、彼の――真の顔を、もう一度見てみたい。


「兄さん?」

「あ、ああ、何でしょうか」

「あのね、今日、六時からだって」

「今日、ですか。急ですね」


尤も、用事も何も、高校教師と言う職を捨てたようなものなのだから、今更用事があるわけでもない。


「分かりました。百合子さんたちも行くのでしょう?」

「そうみたい。佐々木さんたちがね、誘おうって」

「そうですか。随分、賑やかになりますね」

「うん!すごく、たのしみ」


笑っている。


(どこか、純粋に喜べない自分がいるのは、何故だろうか。)


いいことだ。


(真が、日常(・・)に溶け込む事は。)


――だが


(己の手のなかで、)

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