睡蓮・8
「なに?」
見据えられていたことに気付いたのか、振り返る。
眼鏡の奥の目は、子供らしい、きれいなものだった。
昨夜の無機質で、まるで機械のような目とは程遠い。
「…いや」
「昨日のこと?」
「・・・」
言い当てられて、籬は嘘をつくこともできずに俯く。
それに気を悪くすることもなく、見つめていた貯水タンクから目を離して笑ってみせた。
「・・・」
邪気もなにもない、微笑みだった。
籬は息を呑み、それを見下ろす。何故だ。何故、笑っていられる。
昨夜、真に危険は及ばなかったものの、確かにアヤナシは真を狙っていた。
「籬に怪我をさせてしまった事は悪いとおもってるよ」
「そんな事はどうでもいい。貴殿が――」
「どうでもいいことじゃない」
一閃、
真はどこか痛むような表情で、籬を睨みつけている。
「籬だって、エ霞だって生きてる。人間と一緒だよ」
「自分は、人間ではない。故障してもすぐに直る」
「人間だって、怪我をしたら治るよ。おなじ事でしょう」
「・・・」
返せる言葉が見つからない。
真は、真剣だった。おちゃらけた様子は見当たらない。
真剣に、言っているのだ。真剣に、人間とおなじだと言っているのだ。
「…そう、か…」
言い返せるはずもなく、籬はただ口をむすんだまま真をじっと見下ろした。
「籬は、うれしいって言ってくれた。それが嘘でもうれしかったよ」
「…!」
「おれが生きていてくれて、うれしいって。そんな事言われたことなかったから」
「・・・」
確かに記録されている。
真はうれしそうに笑って、籬の腕に左腕でそうっと触れた。
「…この腕はね、願い事を叶えてくれるんだって、イザヤが言ってた」
「…願い事?」
「うん。イザヤは、おれのことをよく知ってるし、色んなことを教えてくれる」
これは、誰にも言っていない。
高峯にも、琳にも、誰にも。
せめてもの意趣返しだ、とだけおもっていたそれは、まるで御伽噺のようだった。
「おおっとぉお!」
びくっ、と真の肩が竦む。
エ霞の声だった。わざと音をたててこちらに向かってくる。
大またで歩いてきて、真の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
はたから見れば、じゃれあっている様子にしか見えない。
しかし、エ霞の表情は硬い。
それに気付き、口をつぐんだ。
「…真」
「別に、もう…隠さなくてもいいんじゃないかって、おもって」
「駄目だ」
エ霞らしかぬ、険しい表情でかぶりを振る。
『どういうことだ』
無線が急に入ってきたが、エ霞は口を噤んだまま押し黙った。
『エ霞』
『…よく考えてみろ。五室や、執行部隊共が真を“わざわざ”生かせている理由だ。真しか知らない情報をどうやって吸い取るか。それを考えあぐねているんだろうよ』
不思議そうに、籬とエ霞を見比べている真は、やはりそのことを知っているのだろう。
何も聞こうとはしてこない。
「主。主はどこまで知っている?どこまで、自分のことを知っているんだ」
ふっ、と、赤い目が暗闇に落ちる。
昨夜の、無機質で、何も感じていないような瞳。
「ぜんぶ。ぜんぶだよ」
まるで、他人事のように真は呟くようにささやいた。
真っ白な手が握りしめられて余計白くなる。
「おれは、おれから逃げられない。どう足掻いても」
「・・・」
「父さんが、全部話してくれたから。おまえはあと数年しか生きられないから、好きなことをして過ごせって」
真は、感謝していた。
下手にこそこそと隠されていたらきっと、もっと傷ついていただろう。
「でもね!」
声色がくるりと変わって、真は楽しそうに顔を崩した。
それでも、むりやり笑っているという事はエ霞でさえ、分かっている。
「籬や、エ霞たちと出会えて、おれは救われたんだよ」
籬は、ずきりとした胸の痛みを感じた。
それは、感じたことのない内部的なものだった。




