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2話 後編

 

 気が付けば私は、先程のマルタさんの家にいた。

 手のひらには、たしかにバターのかたまり。星のマークもナビも、もうどこにもない。


 戻ってこれた……。

 力が抜けて、膝から崩れそうになる。


 商品を手に取ったら勝手に帰された。

 なるほど、そういう仕様か。先に言ってくれ。


「ちょっと、今あなた光って……って、どこからそれ出したの!? 何!?」


 マルタさんが腰を抜かしたように私を見ている。

 どうやら、あのデパ地下はマルタさんには見えていなかったらしい。


 傍から見たら、私が一瞬輝いて、手から急にバターが生えた女だ。

 字面がもう怖い。(本当にどういうこと……?)


 説明、どうしよう。

 とりあえず…この、いい香りで誤魔化せないだろうか。


「え、えへへ……すみません、ちょっとキッチン借りてもいいですか……?」

 キッチンを借りていいか聞くと、マルタさんは戸惑いながらも頷いてくれた。


 火にかけたフライパンに、バターをひとかけ切って落とす。


 本当はもう少し手をかけたいけれど、今ある武器はバターひとつだ。


 あるもので戦うのは、営業時代に嫌というほどやってきた。

 男の子の顔を見る。やつれてはいるけれど、熱がある感じでも、どこかが痛そうな様子でもない。

 これは——たぶん病気じゃない。


 食べることに疲れてしまった顔だ。

 毎日毎日、同じ硬いパン。味のしない、ただ腹を満たすだけの食事。

 育ち盛りの子が、食べる楽しみそのものを忘れかけている。

 前の世界でも、忙しさで食事が作業になった人の顔を、私は何度も見てきた。


 だったら、いきなり食べさせちゃだめだ。まずは香りから。

 固いパンを薄く切って、溶けたバターをほんの少しだけ吸わせる。

 それを弱火でこんがり。バターは多すぎないように。弱った胃に重いのはよくない。

 立ちのぼる香りが男の子のところまで届くように、私はわざとゆっくり焼いた。


 じゅう、と小さな音がして、それが溶けていく。途端にあの香りが部屋の中に広がっていく。


「な……なにこの香り……!?」

 マルタさんが目を丸くしてフライパンをのぞき込む。信じられないという顔をしている。


 当然だ。この世界の人は、たぶん「バターが溶ける香り」を生まれて一度も嗅いだことがない。


 ぴくり、と男の子の鼻が動いた。

 焼きあがったそれを、端っこをほんのひとくち分だけちぎる。


「ひとくちだけ。食べられそうなら、でいいからね」


 男の子はためらいながら、それを口に入れた。

 もぐ、と小さく噛む。次の瞬間、その目がぱっと見開かれた。


「……おいしい!」


 ぱくり、ぱくりと夢中で食べはじめる。

 先程までぐったりしていたのが嘘みたいに。マルタさんが口元を押さえて、声もなく泣いていた。


 ああ、と思った。この顔が見たかったのだ。


 大勢に届けたいわけじゃない。

 誰かに何かを「広める」のは、私の仕事で、だけどずっと私を削るものだった。


 でも、これは違う。目の前のこの子にそっと手渡す。

 ただそれだけ。「美味しい」と笑ってくれる、そのささやかな時間がどうしようもなく愛おしく思えた。



 ---



 男の子が頬を膨らませて食べる様子を、マルタさんはずっと泣き笑いのような顔で見ていた。


「せっかくなので、マルタさんも一緒に食べませんか?」

 マルタさんにもパンを焼いて渡す。


「………!美味しい!しかも、心做しか力が湧いてくるわね」

 パッと目を輝かせながら食べてくれる。息子さんに表情がそっくりだ。


 ついでに私の分も食べる。


 ああ、なんという事でしょう。

 あの味がしなかったパンが香ばしく、程よい塩分もプラスされて甘味と旨味が出ました…。

 まだ硬いけどこれはこれで食べ応えあってアリだな…と考えていると、


「……あんた、ほんとに何者なの」


 ぽつりとマルタさんが言う。

 怖がっているというより、ただただ信じられないという声だった。


「こんなにいい香りのするもの、生まれて初めて食べたわ。

 この子も、こんなに食べて……ありがとう。ありがとねえ……」


「い、いえ、そんな。顔を上げてください!」


 空気を変えたい……! 何か話題は……!

  そういえば、私はまだ名乗ってすらいなかった。名乗りもしないで手からバターを生やすような不審者に、こんなに優しくしてくれたマルタさんは神なのだろうか。


「あの。名乗るのが遅れてしまってごめんなさい。私、芽衣っていいます。

 日向 芽衣。……メイ、って呼んでください」


「メイ」

 マルタさんが確かめるように繰り返す。


「いい名前ね。あたしはマルタ。こっちの食いしん坊は、テオ」

 テオが口をもぐもぐさせたまま、ちらっとこっちを見た。

 それからまた皿に集中する。たぶん、今は食べるのに忙しいらしい。


「マルタ、テオ」

 声に出してみる。


 たった三人の、たった一回の自己紹介。

 なのに、なんだろう。声に出すと喉の奥が詰まった。


 誰かに名前を呼ばれて、誰かの名前を呼ぶ。

 当たり前のことが、こんなに嬉しいなんて忘れていた。


 ——と、そのとき。

 手のひらがまた温かくなり、からっぽだった棚に少しだけ何かが満ちていく感覚があった。


 『届けるたびに、商品は増えていく。』

 さっきナビはそう言っていたな。


 ……ということは、もっといろんな人に届ければ、エ◯レのカヌレやペ◯ンシュラホテルのマンゴープリン、おいしいパンやお惣菜とかも出せるようになるのでは?


 ……いやいや。今はそういう話じゃない。

 そういう話じゃ、ないんだけど……!

 少しだけ、ほんの少しだけ、私の胸も高鳴っていた。



 ---



 その夜、私は村はずれの草の上に座り、空を見上げていた。

 星が降ってくるような綺麗な空。オフィスの白々しい蛍光灯とは、何もかも違う。

 誰にも何にも急かされないゆったりとした時間。


 以前の私は、誰かに頭を下げて波風が過ぎるのをただ待つ。

 広めて、届ける。仕事の度に私は少しずつ削れていった。


 でも、ここではどうやら違うらしい。頭を下げるんじゃない。渡すのだ。

 手のひらにのせてそっと差し出す。それだけで誰かが笑ってくれる。笑ってもらえるとメルシーが貯まる。貯まるとまた渡せる。


 ……よく出来た仕組みだ。

 働いた分だけ削られるんじゃなくて、誰かが笑った分だけ満ちていく。

 前の会社にも、ぜひ導入してほしかった。


 ふと、手をぎゅっと握ってみると先ほど見たウィンドウが現れる。

 そして淡い文字が浮かんで、残高を教えてくれた。


 『メルシー ★6』。


 バターひとつと引き換えに一度はゼロになって、それでもテオとマルタさんの笑顔でこんなに増えた。


 しかも、あの二人の喜びようはすごかった。

 同じ品でも、深く喜んでもらえるほどたくさん貯まるらしい。


 急ぐ必要なんてない。ひとつずつ、目の前の人に届けていけばいい。

 私だけのデパ地下を、少しずつ満たしていこう。


「ふふ、次は何が並ぶんだろう?」

 明日が来るのが、ほんの少しだけ楽しみになっていた。


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