2話前編 私だけの百貨店 メルシー百貨店
……草原をどれだけ歩いただろうか。
日が傾きかけた頃、丘の向こうに小さな村が見えた。
石と木でできた素朴な家々。日本ではない、まるで中世ヨーロッパのような景色だ。
よろよろと歩いていると、井戸の前にいた赤茶色の髪の女性が、私に気づいて駆け寄ってきた。
「あなた、どこから来たの……!? ひどい顔してるじゃない!?それにその服装はいったい……?」
…! 言葉がわかる!
聞いたことのない響きなのに、意味がすっと頭に入ってくる。
違和感はある。あるんだけど、それを気にする余力より、人に親切にされた安堵のほうがずっと大きかった。人間、優しくされると涙腺がゆるむ。
「あ、あの……」
喋りかけようとしたとき。
ぐううぅぅ……。
情けない音がお腹から聞こえた。
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女性は私を家に招き入れ、食事を出してくれた。
木の皿に、固そうな黒パンと削った岩塩のかたまりが乗っている。
パンをちぎって口に運ぶ。酸味もうまみも香りもない。ただ硬いだけのパン。
塩を少しつけても、しょっぱさが足されるだけである。
……このパン、発酵してない。
今少し棚が見えたけれど、おそらくバターもチーズもない。塩と、棚にあった乾いた香草。それだけだ。味噌も醤油も出汁も、当然のように存在しない。
頭の中で調味料の棚が一段ずつ音を立てて消えていく。料理人がいたら卒倒する世界だ。
私も半分卒倒しかけている。
「どう?少しはお腹の足しになるかしら?」
女性がにっこり笑った。その笑顔だけは、私の知っている世界と何も変わらなかった。
固いパンは美味しいとは思えなかったけれど、お腹と乾き切った心が満たされていくのを感じた。
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「本当に有難うございました……! あなたがいなかったらお腹が空いて倒れるところでした……」
「いいのいいの! 困った時はお互い様っていうじゃない?」
話をする中で、その女性がマルタさんということ、その家にはマルタさんの息子の小さな男の子がいることを知った。五歳くらいだろうか。寝床でぐったり横になっている。
「もう何日も、ろくに食べてないの」
マルタさんが困った顔で言った。
パンを差し出しても、男の子は「……いらない。美味しくない」と力なく首を振るばかり。
胸が痛んだ。何とかしてあげたい。
何かに導かれるように、私は両手をぎゅっと握った。
この子に何かあたたかくて美味しいものを届けたい。ただ、そう願いながら。
次の瞬間。握った手をそっと開くと、目の前の空間がふわりと光った。
縦に細く線が走り、まるで扉のように左右に開いていく。
淡い金色の向こうに、見覚えのある光景が透けて見える。
ガラスのショーケースに、磨き込まれた床。
……デパ地下だ。私の知っている、あのデパ地下の入口。
「?!え、ええ…?」
戸惑いながら、恐る恐る足を踏み入れる。一歩越えた瞬間、背後の村の物音がフッと消えた。
空調までひんやり再現されていて、芸が細かい。
振り返ると、入ってきたはずの扉がもう見当たらない。
……え。出口は。帰り方は……?
すっと血の気が引いた。やってしまった。
知らない場所のドアを確認もせず入る、危機管理ゼロの女。営業マン失格だ。
ただ、ここで突っ立っていても埒があかないと思い、出口を探すためにも歩き出す。
陳列されたショーケースや棚の中はほとんど空っぽだったが、たった一区画にだけ、ショーケースの後ろの壁に看板のようなものが立っているのを見つけた。
近づいてみると、看板には私が愛してやまない、あの高級バターの洋菓子専門店の名前が書かれていた。
「えっっ!? エ◯レ……!? なんでここにエ◯レの看板が……?」
看板の下のショーケースを見てみると、中にはぽつんと何かが置かれている。
それは、銀紙(金色の紙の銀紙だから金紙か……?)に包まれたバターのかたまりだった。
一部だけ、情報が隠れているが商品の詳細が見える。
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【商品名】エ◯レバター / 有塩 / size:S
【説明】香り高い発酵バター。クリーミーでなめらかな口当たり。
【???】???
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「……バター、一個だけ?」
思わずツッコんでしまった。一面の空き棚にバター単騎。
品揃え攻めてるな。
でも、そこに置かれているのは紛う事なき某バターである。
普段高くてなかなか手が出せないが、1つあればトーストのランクが格段に上がり朝から幸せな気分になれる、あの美味しいバターだ。
その商品の近くには『メルシー ★1』と書かれた謎のプレート以外、値札はない。
レジも店員もいない。
「???……これ、勝手に持っていっていくのはまずいよね…? お金は?」
誰もいない空間に問いかけると、宙にふわりとウィンドウ、そして羊のようなキャラクターが浮かび上がった。
『ようこそ、あなただけの百貨店——メルシー百貨店へ。』
百貨店。デパート。じゃあ、ここ、私だけのデパ地下ってこと……!?
夢か。最高か。……じゃなくて
『私はコンシェルジュの"ナビ"と申します。初めてご来店いただいた日向様へ、当店の説明をさせて頂きます。』
羊のキャラクターはナビ、というらしい。モチモチした可愛らしい見た目だが、喋り方や佇まいは誠実そのものだ。
『当店の商品は“あなた以外の誰かに届ける”時にだけ、お持ち帰りいただけます。
お支払いはメルシーで。』
「メルシー…。ありがとう、ってこと?」
『メルシーは、誰かを想う気持ちと届いた笑顔で貯まります。同じ品でも、相手が深く喜ぶほど、たくさんのメルシーが。
本日ははじめてのあなたへ——1メルシーを進呈。』
ウィンドウに小さな星のマークがぽん、と灯った。
『メルシー ★1』。
『商品を手に取った時に、お手持ちのメルシーと自動で交換されます。
なお、商品ごとに必要なメルシーは異なります。
商品を誰かに届けるたびにラインナップも増えていきますので、たくさんの笑顔を集めてくださいね。
さっそくそちらにあるバターを手に取ってください。』
言われるがまま、私はそっとバターを両手で取り上げた。ずっしりと本物の重み——と感じた次の瞬間。
ふっと視界が白くなった。
2話以降、長くなりそうな時は前編・後編に分けます。
【メルシー必要数の目安】
メルシー★1・・・現実世界で〜1000円程度の商品を購入出来る
*以降1000円ずつメルシーの必要数が上がっていくようなイメージで設定しています。




