1話 広告代理店は謝ることが仕事である
月曜の朝の山手線は、私にとってひとつの精神修行だ。
煩悩がどうこうではなく、単純に物理的につらい。
満員電車を乗り切るために買ったワイヤレスイヤホンは、外に降りようとする人々に吹き飛ばされ、先程どこかへ飛んでいった。
たぶん誰も気づいていない。
怒ったり悲しむ気力もなく、手持ち無沙汰になった私は、ぼーっとする頭で仕事のことを考える。
日向 芽衣、二十五歳。
広告代理店で営業をして三年になる。気を遣いすぎて、いつも少しずつ削れている。
先週、デパートのクライアントに三回謝った。
一回目は催事ポスターの入稿データのフォーマットについて。
二回目は試食会の日程調整。
三回目は……何だったっけ。なんかもう、謝りすぎて謝る理由をメモしとかないと忘れる。
…広告代理店の一番の仕事は、謝ることなのではないだろうか。
こんなことを考えてしまうくらいには疲れ果てていた。
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昨夜の二十三時、クライアントから一通のメールが届いた。
「やっぱり最初の企画案でいきたい」と。一週間かけて修正した、あの二稿ではなく。
……ハーン???
一週間。一週間ですけど。
あの土日、私が何を諦めて提案を作り直したと思って——
いや。だめだめ。落ち着け私。深呼吸だ。
私は布団の中で「承知いたしました」と十秒で返した。
怒りは……まあ、ちょっとは湧いた。
けど、表に出すほどの体力がもう残ってなかった。
そんなこんなで、出勤と共にデザイナーさんに頭を下げ、印刷所に納期の相談をし、社内の進行管理に経緯を説明した。三方向に謝って、ようやく昼前。
不思議なもので、こういうとき私は淡々としてしまう。波風を立てるより通り過ぎるのを待つほうが、ずっと楽だと知ってしまっている。
誰かが「めいちゃんは便利だね」と言った。
たぶん褒め言葉だったのだと思う。便利。コンビニみたいだな、私。
私はパソコンに向き直り、次のメールを開いた。
件名の頭に、また【至急】の二文字が光っている。光らなくていいから。
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二十三時半。フロアには私と、蛍光灯の低い唸りだけが残っている。
謝罪のメールを何通送っただろう。何やら、クライアントと外注の制作会社が揉めていたようだ。
状況整理し、応急処置して…気が付けばこんな時間だった。
「この度はご迷惑をおかけいたしまして……」。
同じ書き出しを、相手の名前だけ変えて打ち込む。送信。また打ち込む。送信。
コピペでよくないか? よくない、心がこもってないのバレる。たぶんバレないけど。
送信ボタンを押すたび、自分の中から薄く一枚ずつ何かが削がれていく。
痛みはないが、ただただすり減っていく感じだけがある。
もう十分頑張ったとは思わない。
でも、まだ足りないとも思えない。
怒りも悲しみもなくて、ただ空白だけがそこにある。
自分ってなんだろう…?どんな人だったっけ…?
それすら分からないまま画面の白い光をぼんやり見ていたら、ふいに昨日の事が蘇った。
昨日の午後、伊◯丹の地下で買ったエ◯レのサブレサンド。
帰り道で袋を開けたくなる衝動を、私は鋼の意志で抑えた。
だって、ああいうのは家に帰ってからが本番だ。
冷蔵庫から十分前に出して、バターサンドを室温に戻す。
クリームの角が少しだけゆるんで、いちばん香りが立つ瞬間を狙う。
お皿はあえて温めて、紅茶は茶葉から淹れる。
……我ながら何と戦っているんだろうと思う。でも、この時間だけは譲れない。
そうしてようやく一口。
まろやかな塩気と、追いかけてくる甘さ。サブレのほろほろ感が幸せで、嬉しくて。
思い出すだけで、ほんの少し呼吸が深くなる。あの瞬間だけは、私はちゃんと私だった。
「……明日こそ仕事を早く終わらせて、帰りにデパ地下に行くんだ」
その一言を唱えるだけで、明日が来てもいい気がしてくる。
希望と呼ぶには小さすぎるけれど、私にはそれで十分だった。
パソコンを閉じる。
今日もよく頑張りました、えらいぞ私。
誰も褒めてくれないので自分で褒めておくのだ。
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ビルを出ると、夜の空気がひんやりと頬に触れた。
空を見上げると、雲の切れ間から月が少し覗いている。
綺麗だな、久しぶりにそんなふうに思った気がする。
ふいに、体の力が抜けていくのを感じた。
重い荷物を、誰かがそっと肩から下ろしてくれたみたいに。立っていられなくなって、でも、不思議と怖くはなかった。
視界の端から、夜がゆっくりと溶けていく。
ああ、そういえば。
今週発売のモ◯ゾフのかぼちゃプリン、買えなかったな……。あれ、かぼちゃのホクホク感がほろ苦キャラメルソースのプリンにマッチしてて最高に美味しいのに…毎年の私の楽しみだったのにな……。
それが最後の、心残りらしい心残りだった。
遠ざかる意識の奥で、ふっと香りがよぎる。
バターに焼けたサブレ、あのやさしい匂い。
——誰かと、一緒に食べたかったな。
そう思いながら、私は静かに目を閉じた。
まるで、長い一日がようやく終わったみたいに。
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匂いが違う、と最初に思った。
排気ガスでも、ビルの空調でもない。
深呼吸したくなる空気って何年ぶりだろうか。
大きく深呼吸してから目を開けると、一面の空が広がっていた。
視界いっぱいの青に、風に揺れる大草原。その真ん中に仰向けで倒れていた。
ゆっくり身を起こす。
スーツのままだ。スカートに草の汁がついている。
あ、これ、終わった。
たぶんクリーニング頼まないと落ちないやつ。
……いやそこじゃない。
鞄もスマホもない。
あるのは、くたびれたスーツを着た私自身だけ。
ここはどこだろう。日本じゃない……?
あの世にしては、天国でも地獄でもなさそう。
草原すぎるし、明らかに「ここは異世界です!!」みたいな顔した見たことがない草とか生えてる。
膝を抱えてしばらくぼんやりしていた。
それから、私の口からこぼれたのはこんな一言だった。
「……お腹すいた」
見知らぬ場所に放り出されて第一声がそれか、と自分でも思う。
でも、お腹は空く。命がある証拠だ。
そのとき、ふっと鼻先をかすめたものがあった。
バターのような奥深くて芳醇なあの香り。
洋菓子やパンが焼き上がった時の、何百回と嗅いできた私の大好きな香り。
思わず顔を上げてあたりを見回すが、草の海と青い空が広がるだけで何もない。
パン屋も菓子店も、デパ地下もあるはずがない。あったら逆に怖い。
「……気のせい?」
風が運んできた遠くの花の香りを、勝手にそう思い込んだだけかもしれない。
あるいは、疲れた頭が見せたただの幻。
空腹で幻臭まで嗅ぐようになったか、重症だ。
でも、手のひらがなぜか温かかった。
じんわりと、内側から灯るような不思議なぬくもり。
何かをそっと受け取る寸前…?みたいな、不思議な感覚。
私はその手をしばらく見つめたが、何も起きない。
当たり前だ。手のひらを見つめて何かが出てくるなら、世の中の苦労はだいぶ減っている。
「……空腹のせいかな」
そう呟いて手を下ろす。
きっと、お腹が空きすぎておかしくなっているのだ。
そう思うことにした。
でも、胸の奥で何かがほんの少しだけざわめいていた。
最後まで読んでいただき、有難うございます!
小説家になろうに投稿されている作品を読むのが好きで、ある日「書いてみよう」と思い立ちました。
デパ地下が好きで、甘いものが好きで、誰かと美味しいものを食べるのが好きな主人公の話です。
じんわりと温かい気持ちになれるような作品を目指して書いていけたらと思います。
2話もお付き合いいただけたら嬉しいです。
今日は1~3話まで順次投稿予定です。




